Steve Jobs氏がフリントセンターの壇上に現れると、観衆の興奮は一気に高まった(発表時の動画を参照)。疲れ果ててはいたが歓喜の絶頂だったMacチームをはじめ、2500人以上が同会場に詰めかけた。ダークグレーのブレザーと白色のシャツ、緑色の蝶ネクタイを身に付けたJobs氏に40人以上のテレビクルーがカメラを向けていた。
その前夜は混沌としていた。「デモが思ったとおりにいかなかったので、Steveは激怒していた。翌朝に予定されていた株主総会に臨むのは不可能に思えた。登壇して観衆に話しかける前、Steveはわれわれと一緒に舞台裏にいたが、彼は恐怖心を抱いていた」。Appleの元最高経営責任者(CEO)のJohn Sculley氏はこのように述べる。
しかし、マウスのボタンを押した瞬間、Jobs氏は笑顔を見せ、心の底から楽しみ始めた。Macintoshは合成音声で、初めて公の場での発言を行った。「こんにちは、私はMacintosh。あのバッグから出てこられて本当にうれしい。人前で話すことに慣れていないので、IBMのメインフレームに初めて出会ったときに思いついた格言を皆さんに紹介したい。『持ち上げられないほど重たいコンピュータを決して信頼してはいけない』。もちろん私は話すことができるが、今は座ってほかの人の話を聞きたい。では、私にとって父親のような存在である人物を、胸を張って紹介しよう。Steve Jobsだ」
観衆は熱狂した。Jobs氏は同氏とチームの偉業に対する賞賛を浴びた。そして、Macintoshがおとなしく言うことを聞き、ライブデモがクラッシュしなかったことに感謝した。Appleの32番目の従業員だったBrian Howard氏が、384Kバイトの追加メモリをMacに容易に搭載できるように、最終的なロジックボードにメモリアドレスラインを余分に追加するよう主張したことは、Jobs氏にとって幸運だった。実際には、Jobs氏はリリース前の64Kバイトのメモリチップで構成された512KバイトのMacintoshでデモを行った。
初期のMacintoshソフトウェアエバンジェリストの1人であるGuy Kawasaki氏は、次のように述べている。「Steveが1984年に行ったMacintoshの発表は、夢のように素晴らしい瞬間だった。あの日、地球の軸が少しずれた。SteveがMacintoshをバッグから取り出すと、Macintosh自身が『話し』始めた。まだ子どもがいなかった私たちの多くにとって、それは子どもを持つのに最も近いことだった」
Jobs氏は発表前に撮影された宣伝映像の中で、Appleの存続を危険にさらして賭に出ていることと、競合に対する自らの態度をはっきりと説明している。
「もしMacintoshが大成功を収められなかったら、それは、人々が望むコンピュータの用途をわれわれが見誤っていたということだ。つまり、われわれは自らのビジョンに賭けている。模倣製品を作るくらいなら、そういう賭けをしたい。人真似は他社にやらせておけばいいだろう。われわれにとって大切なのは、いつも次の夢だ」
Jobs氏とその「海賊たち」は、IBM PCクローンやMicrosoftの「MS-DOS」OSから世界を救うことはできなかった(「iPhone」を発表してコンピューティングの世界に新たな道を示したのは、それから23年後のことだ)が、グラフィカルユーザーインターフェースやマウスを世に広めることで、パーソナルコンピューティングの顔を変えることには成功した。
その16カ月後、Jobs氏は自らが共同創設したAppleの取締役会から追放される。そして、オリジナルMacチームのメンバーの多くも次の場所へ移っていった。Macintoshは好スタートを切り、1984年4月末までに7万台以上が売れた。9月にはメモリ容量が4倍に増えた「Macintosh 512K」が発表され、より多くのアプリケーションが出荷されるようになった。
CNET Japanの記事を毎朝メールでまとめ読み(無料)
ものづくりの革新と社会課題の解決
ニコンが描く「人と機械が共創する社会」
ZDNET×マイクロソフトが贈る特別企画
今、必要な戦略的セキュリティとガバナンス