スカンジナビア航空を再建した経営者ヤン・カールソンが、顧客体験がどれほど重要かを説いた「真実の瞬間」(ダイヤモンド社)は1990年に出版されています。
「最前線の従業員の15秒の接客態度が、企業の成功を左右する。その15秒を“真実の瞬間”という」と彼は述べ、またこう続けます。
「競争が激化し、ますますサービスが重視される市場に対応するための第一の方策は、顧客中心の方針を確立することである」
このように、私たちがいま興味を持って取り組もうとしている“エクスペリエンス・デザイン”は最近突然現れた考え方ではありません。そこには、「顧客が本当に解決したいコトを正しく捉え、それに対して適切な対応が出来れば自ずと価値が生まれる」というシンプルで普遍的なマーケティングの思想があります。しかし、この素朴ではあるが本質的な取り組みは簡単には片付かないことは皆さんもお感じだと思います。
一方、エクスペリエンス・デザインは、これまで自分たちができなかったことが突然できる「銀の弾丸」のように期待が集まっています。その理由は、おそらくこれまで不明確だった、顧客の行動や心理を横断的・複眼的に捉える方法がコンセプトとして確立し、同時にツールが整備されつつあるからでしょう。
顧客を捉えるための手法、課題を定義するための手法、施策アイディアを作り、導入するための手法と言ったいくつかのプロセスに分解され、それぞれに代表的な(実績の出始めた、現場で手応えを感じられる)フレームワークが開発されつつあります。この中の1つが、顧客の行動や心理を一連の流れとして俯瞰して捉えるカスタマージャーニーマップということです。
このコンセプトに通底するのは、“人間中心”という考え方です。デザインの世界に元々あった“Human-Centered”という言葉をそのまま訳しただけで、日本語では他文脈でほぼ使われることがないため、初めて聞いた人はぴんとこないという人も多い気がします。もともとインターフェースデザインをする上で、ある段階から“美しい”とか“格好いい”ということにはさほど価値がなく、“使う人”が課題解決できるかどうか(平たく言うと使いやすい)こそが大事で、そこを“中心”にデザインを考えるべきだという気付きから出てきた考えです。
これが、顧客志向、現場主義という昔からある商売の基本ととても相性が良く、デザインやインターフェース設計の世界を超えてマーケティングの戦略構築に応用され始めました。
たとえばホテルの検索サイトという、単純なウェブサービスであっても、その使い勝手の良し悪しやサービスとしての成否は、単一の要因から生まれるわけではありません。ターゲットに正しく認知されているか、SEOなど集客の導線は整備されているかに始まり、コードの最適化、検索画面のレイアウト、検索画面でのアシストの適切さ(入力途中に出てくる候補ワードの精度など)、あるいは登録項目の適切さなど、さまざまな要素が複雑に絡み合っており、そこにそれらが高い頻度で更新されているかという問題が加わります。そして、これらのひとつ一つの要素を機能させるためには、その下層におけるサーバ、ネットワーク、そして端末の処理速度の問題などへの対応が必要です。
このような複雑性の中で、どれか1つの要素を突出させるだけではサービスの品質を引き上げることは難しく、エクスペリエンス・デザインとは、複雑に絡み合う要素をどのようにすり合わせて、ひとつの方向にアライメントし、ねらう性能や機能、目指したいブランドポジションへとまとめ上げていく考え方や手法の総称です。これは、複数のマーケティング活動と機能設計のかけ合わせのなかから生まれるので、施策の単純なパッチワーク(足し算)では実現が難しく、その統合のための手法が、顧客を中心にして物事を考えるジャーニーマップやペルソナということになります。
われわれ電通デジタルでは、マーケティング戦略や商品・サービス開発全体のサポートをさせていたくコンサルティングサービスを行っています。近年、クライアントからターゲティングやポジショニングを工夫するだけで、人を満足させることが難しくなってきたという相談を受けることが増えました。
一昔前は、ニッチとなるニーズを探し、競合に先駆けて商品やサービスを投入したり、コミュニケーションによってイメージ形成することで新たな市場を創造できる場合も多かったのでしょうが、いまはどうやらもっと競争が複雑で、“微細で絶妙”なレベルに引き上げられてきており、それにどう対応すべきかという相談です。
我々がサポートしたある小売業のプロジェクトでは、似たような“微細で絶妙”な体験が購買に影響している場面に直面しました。他のチェーン店に比べ、「レジで電子マネーを利用するときの反応が遅い」、「自分が利用する電子マネーの種別を自分で選択するひと手間が煩わしい」といった不満点が顧客インタビューで続出したのです。電子マネーに対応するレジシステムを導入すれば新しいニーズを吸収できるというところまでは正しいのですが、その使い勝手に配慮が行き届いていないため台無しになっていました。
また、2010年、マイクロソフトのユーザーエクスペリエンスマネージャーであるポール・レイ氏は自社の検索サイトのリンクカラーを変更した(同じブルー系だが少し彩度を落とした)ことで、クリック数の増加やユーザー関与の増大により、年間売上高が8000万ドル増加したという成果を発表しています。今では多くのサイトでこのような配色パターン検証が行われていますが、かつてはデザイナーがそのセンスのみによって決定することが一般的でした。そこにマイクロソフトが収益のドライバーとなり得ることに着目し、成果を出したということが注目されました。
このように、顧客が来店(アクセス)し、購入(アクション)してもらうための一連の流れの中で、あらゆる工夫を凝らしながら競争をしていくことが求められていると思います。
このような説明をすると、エクスペリエンス・デザインが家のドアの開け閉めをスムースするためにちょっとオイルを刺したり、駐車場の段差を埋めるためのブロックを積んだりする日曜大工の修理みたいなものに思われるかもしれません。
しかし、それはちょっと矮小化しすぎている気がします。エクスペリエンス・デザインにみんなが期待しているのは、これまで皆さんがマーケターやビジネスパーソンとして感じていた、顧客が感じているであろう小さな違和感やチャンスを個人の暗黙知ではなく組織の戦略とし合意させていくためのフレームワークと考えてみてください。
その代表例が、カスタマージャーニーマップやサービスブループリントといったものです。 これまでの戦略で見逃されてきた、“パワーポイントやエクセルでは記述しにくいニュアンス”を見通していき、それを骨太な戦略に格上げすることが必要です。それは商品やサービスと顧客の新しい関係性を見て取って、チャンスを見つけようということであり、顧客行動を理解するといっても、セグメントやクラスタといったある属性グループで人を捉えるだけでは抜け落ちるものがどうやらありそうだというのが基本となる考え方です。
次回以降ではエクスペリエンス・デザインの主要なフレームワークとその作り方を説明していきたいと思います。そのなかでも、特にカスタマージャーニーについて作る目的や、そのために必要な観察調査を中心とした情報のインプット手法について解説します。また、こうしたプロジェクトを社内で推進していくための、チーム編成の工夫についても触れていきたいと思います。
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