ウェアラブルテクノロジを搭載したこういった眼鏡は「スター・ウォーズ」や「スター・トレック」といった映画で目にしたことがあるはずだ。
実際のところ、Google Glassとは何かを説明するには、映画「ターミネーター」を出してくる方が分かりやすいだろう(もっとも殺されたりはしないし、殺人ロボットが出てくるわけでもない)。
顔のどこか、人から見える位置に何か(何でもよい)を装着すれば、それが見たことのあるものであっても人は凝視する。見ないようにするのは難しいだろう。その対象に興味があるのであれば、なおさらだ。つまり、凝視は学習プロセスであり、学習の進展に伴って凝視されることはなくなっていくはずだ。
しかし、世の中はまだその段階に至っていない。スマートフォンがゆっくりと当たり前のものとなってきたことに伴い、プラグインや、さまざまな形や大きさのデバイスに搭載されているカメラをとりまくプライバシー関連の状況も当たり前のものとなってきた。社会が適応するにはしばらく時間が必要だったのだ。とは言うものの、こういったプロセスは、われわれが懸念を克服するとともに、世界中の人たちと猫の写真を共有できる点に気付いた時に一気に加速化された。欧米各国について言えば、ようやくこのレベルにまで到達したのである。
今のところ、Google Glassが違和感なく受け入れられる状況にはなっていない。このため、われわれがヒトとマシンの間にある領域にある程度足を踏み入れたがゆえに生み出されたこういったハードルを乗り越えようと思うならば、倫理的かつ文化的なさまざまな取り組みが必要となるだろう。われわれは既に多くの分野でテクノロジの恩恵を受けているのだ。
こういった段階に到達できないと言うつもりはない。しかし、社会的に受け入れられると皆が現時点で思っている領域を越えても大丈夫だと感じられようになるには、長い時間がかかるはずだ。
この記事は海外CBS Interactive発の記事を朝日インタラクティブが日本向けに編集したものです。
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