ここ最近、ある変化を感じている。企業が消費者向けに作成するコンテンツやコミュニケーション表現における「嘘と誠のバランス」だ。
多くのコンテンツは、その成り立ちから「フィクション(架空や創作の作品)」と「ノンフィクション(史実や記録に基づいた作品)」という2つに大別できる。子供のころ、お気に入りのテレビドラマの最後には必ず「この作品はフィクションであり、実在の人物・団体とは・・・」というテロップが現われた。
最初は意味がわからず、やがて「ああ、そういうことだよな」と妙に世を知った気分になった。
「フィクション」という言葉を知ったのも、その頃だったのではないか。そして今、このフィクションとノンフィクションのバランスに変化が見えるのだ
例えば、最近よく目にする某社の電子書籍端末のCM。美術館前で、一般の人々が同機の使用感について感想を述べていくものだが、放映開始するや「イラッとする。違和感を持つ」という声がソーシャル上で拡散し始めた。
なぜ、ウザがられるのか。僕はここに「フィクションとノンフィクションのひずみ」が起こっているような気がする。
このような表現自体は「テスティモニアル(推奨広告)」といって昔からあるものだ。
スキンクリームなどで一般の女性が画面に登場し「使い出したら違いにびっくりして・・(個人の感想です)」という例のあれだ。
形式自体はむしろ王道であり、おそらく広告主としては「リアルな人たちの声」が商品をいま最も訴求できるコンテンツだと考えたのだろう。
そこまではいいが、問題は画面の端に出る「隠しカメラで撮影しています」ではないか。
「いまどきの消費者はかしこい」とはもはや言い飽きた感があるが、この場合は、「周知のフィクションを過剰にノンフィクションとして演出してしまった」ことのバランスの悪さではないか。
いっぽう、フィクションとノンフィクションのバランスを既知の領域から変化させることで、新たなタイプのコンテンツも生み出されるようになってきた。
たとえば最近、ボルボトラックの一連の広告コンテンツが評判だ。主にボルボトラックのステアリング性能が訴求されるのだが、「ハムスターと砕石場篇」、「瞑想するヴァンダム篇」など、とにかくスリリングで拡散性も高い(ムービーを観てもらうのが一番早い)。
ここに感じる可能性は、「ノンフィクションぽく見えるフィクション」から「フィクションぽく見えるノンフィクション」への発想転換だ(少なくとも視聴者にはそう見える)。
アジア最大の広告祭「スパイクスアジア」で2013年のPR部門グランプリを受賞した「DrivingDogs」のキャンペーンも発想は同じだ。
「シェルタードッグ(収容保護犬)は知能が低いわけではない」ということを訴えたかったニュージーランドのNPOは、動物トレーニングの専門家を雇って、なんと8週間でワンちゃんにクルマを運転させるという挑戦を行う。
あくまでも「実際に事をおこす」ことを中心に、それを上手に演出するというノンフィクションベースのクリエイティビティなのだ。
広告と戦略PRは融合していくと言われる。それは例えばペイドメディアとアーンドメディアの組み合わせなどのメディアありきの話ではなく、コンテンツのあり方で考えるのが本質だろう。
広告とはフィクションであり、PRとはノンフィクションである――それもいずれ古い考えになっていくだろう。
ノンフィクションやトゥルーストーリー(実話)が持つ迫力や説得力。フィクションの持つ自由自在なストーリーテリングや共感力。
大事なことは人を動かすために必要なパワーの見極めと、その表現をどうするか、その「さじ加減」が問われていくのではないか。
この記事はビデオリサーチインタラクティブのコラムからの転載です。
CNET Japanの記事を毎朝メールでまとめ読み(無料)
ものづくりの革新と社会課題の解決
ニコンが描く「人と機械が共創する社会」
ZDNET×マイクロソフトが贈る特別企画
今、必要な戦略的セキュリティとガバナンス