アドビ システムズで代表取締役社長を務めるジェームズ・マクリディ氏は元メジャーリーガーというユニークな経歴を持っているが、2019年8月付で同社の常務執行役員に就任した、アドビ カスタマー ソリューションズ統括本部長の小沢匠氏も、音楽家からマーケティングの世界へと飛び込んだ、異色の経歴の持ち主だ。
小沢氏は、アドビ システムズ(以下、アドビ)が2012年にソフトウェアの販売形態を、パッケージ販売モデルからサブスクリプションモデルへと大転換した際に、先導して社内の意識改革を起こした、“チェンジリーダー”という異名も持つ。なぜ、全く毛色の異なる業界でキャリアを歩むことにしたのか。そして、いまでは200名近い規模へと成長したアドビのサービス組織を今後どのように率いていくのか、同氏に思いを聞いた。
——まずは、小沢さんの経歴について聞かせてください。音楽家からマーケターに転身されたそうですが、どのような経緯でアドビに入社することになったのでしょう。
私は3歳の頃からバイオリンを習っていて、将来はバイオリニストを目指していました。入団したいオーケストラはドイツにあったので、高校はドイツ語が学べる獨協埼玉中学高等学校に入学し、その後、武蔵野音楽大学に進学しました。
そんなある日、フランスのジャズバイオリニストであるステファン・グラッペリさんが亡くなり、東京で追悼公演をするという話を母親が聞き、首根っこをつかまれて連れて行かれたんですね。当時の私は「クラシック以外は音楽ではない」というくらい考えが凝り固まっていましたが、そこでジャズの素晴らしさに感動して、パンフレットに「あなたの弟子になりたい。ここに連絡してくれ」と書いて(演奏者に)渡しました。周りは花束を渡しているのにです(笑)。
その後、渡した連絡先に電話をいただいたのが、クラシックからジャズへの転換点ですね。音楽大学はクラシックでしたのでジャズを学ぶことはできません。そこで知り合いのジャズミュージシャンに相談したところ、「バークリーに行け。世界一ジャズを学べる」とアドバイスをもらい、その瞬間に即決で大学を辞めて、ジャズを学びに米国のボストンに行きました。バークリー音楽大学に入学して映画音楽の作曲を学び、卒業後はニューヨークでサウンドデザイナーの職に就きました。足音などの音響効果を作る仕事です。当時は著名小説のオーディオブックが流行っていたので、ドアが閉まる音や風が吹く効果音を作ったりと、充実した日々を過ごしていました。
仕事も軌道に乗っていた時、日本の母に電話をしたところ、どうも様子がおかしいので実家に戻ってみたら、グラフィックデザイナーだった父親が、余命半年の末期ガンであることが分かりました。父は息子に苦労させたくないと秘密にしていたようですが、それを知った私は(家族を選び)すぐにサウンドデザイナーの仕事を辞めて日本へ帰国しました。日本では、NHKで音楽関連の仕事をしていましたが、父親が亡くなり、膨大な借金が残りました。そこで平日はNHKで働き、休日はバイオリオンのブローカー(売買時の仲介人)をやりながら、返済に努めました。
——お父さんの死が、人生を大きく変えたのですね。
その後、着メロや着うたを扱うエムティーアイ、そしてモバイルゲームを手がけるディー・エヌ・エー(DeNA)に転職し、ここでマーケティングと出会います。DeNAではマーケティングと新規プロダクト開発を担当し、当時在籍していた2008年には「怪盗ロワイヤル」という作品に携わりました。幸いにも作品はヒットしましたが、その時に私が一番尊敬する方から言われたのが「マーケターとして三流だね」という言葉でした。
(作品が)こんなに売れているのに何故かと反論したところ、「もともとの月の売り上げ目標よりなぜ一桁増やしているの」と言われたんです。彼は目標額の上下5%に収めるのがマーケターの仕事であり、ビッグヒットはマーケターの役割ではない、と言ったんですね。これが僕のマーケターとしての原体験になっています。
ビッグヒットタイトルを生み出すと、予定と異なる計画値になりかねません。開発・企画・製作・テスト、そしてユーザーというインフラに対して迷惑をかけるため、人を不幸にしてしまうんですね。たとえば、開発チームは高稼働で退社時間が遅くなり、コールセンターも入電の増加で他のサービス対応がおろそかになります。彼には「お前が三流だと言ったのは、そういうことだ。皆を幸せにしていないよ。マーケターは生産・流通・販売・サポートの4つすべてを幸せにするのが最低限の義務。この会社を辞めて、データを扱う企業に行って意思決定できる仕事に就きなさい」と言われました。
それから転職を考えた際に、目についたのが2009年10月にアクセス解析関連のマーケティングサービスを展開するOmniture(オムニチュア)を買収したばかりのアドビでした。当時は「Googleアナリティクス」もあまり耳にすることも少なかったのではないか、と思います。
Omnitureは当時から世界の7000〜8000社の情報を所有しており、アドビに入れば各社のマーケティング情報を知ることができます。その頃は父の借金も返済し終えていたので、好きに生きようと入社を決断しました。また、プライベートな理由として生命保険もありました。アドビは総合福祉団体定期保険に加入しており、残された母親にお金を残すことができると考え、この会社を選びました。
——2009年にアドビに入社してから約10年ですが、これまで小沢さんはどのようなことをされてきたのでしょう。また、アドビという企業はどう変化してきたと考えますか。
私はアドビに一般社員として入社しました。マネージャーになる前のコンサルタント時代は、主にAdobe Analyticsを使って、顧客へ提供するレポートを作成していました。その理由は2つあります。1つは、データをもとに来てくださったお客様に対してより良いサービスやより良い商品を購入していただくこと。もう1つは、顧客が決裁会議に提示すべきデータを用意するためです。社内のリソースを動かすためには決裁が欠かせませんが、そのためのデータがなければ意思決定は難しくなります。
たとえば、企画担当者が向き合う会議も、出席するのが現場クラスなのか部長クラスなのか、もしくは経営層なのかによって提示すべきデータも異なってくるでしょう。この見極めをすることで長期契約していただけるようになり、そのやり方を周りに広めていきました。社内でもビジネスコンサルティングの売り上げが拡大するようになり、グローバルでも賞をいただけるようになりました。
顧客は、ツールのブランドなどを大きく気にかけることはありません。何よりも大事なのはデータです。マーケターは顧客に良い商品を一番良い方法で届けるためにデータを揃えるべきだと考えています。
過去に、社内で(マーケティングキャンペーン管理プラットフォームである)「Adobe Campaign」の大型導入を報告するメールが回ってきたことありますが、僕はそれに対して「お客様のビジネスインパクトを追っているのか。そこまで追わないのなら、こんなメールに意味はない」と返したこともあります。やはり、“やり逃げ”のような導入コンサルティングにはなってはいけないからです。
また、アドビという会社としての特に大きな変化は、やはりソフトウェアの販売形態を、2012年にパッケージ販売モデルからサブスクリプションモデルに変えたことですね。
弊社は柔軟性に富んでおり、即応性も高い。ここがマーケターから評価され、投資家から注目を集める理由だと考えています。ユーザーは四半期ではなく、常に変化します。たとえば、(FacebookやTwitterなどの)SNSは日々UI/UXを改善しており、ユーザーはそれを当たり前だと思っています。あのスピードに追いつける企業は多くありませんよね。ですが、アドビは常に顧客中心で変化してきました。顧客と自社製品に大きく投資し、ユーザーに対する即応性を実現しています。
前述したOmnitureの買収も一例となるでしょう。Adobe Creative Cloudで作成したバナーやポスターを目にした消費者が感動する場面の数値化までには至っていませんが、目に留まった回数を反響としてカウントすることは可能になりました。2009年当時は、アドビがOmnitureを買収することに疑問の声が上がっていましたが、その後の株価が結果を示していると思います。
変化を続けてきたアドビですが、変わらないものもあります。それは顧客と製品に対する投資です。たとえば、サブスクリプションで月額数千円をお支払いいただき、使い続けてもらうには、ライトユーザーに弊社製品のファンになってもらわなければなりません。そのため、弊社では製品をよりよく使ってもらうため、2012年にカスタマーサクセスマネジメント部門を立ち上げました。
Adobe Marketing Cloud(現Adobe Experience Cloud)やAdobe Analyticsといった製品群は毎年リニューアルしていますが、仮に9月まで契約いただいた場合に翌年まで一切コンタクトを取らず、営業担当者が8月上旬に急に契約更新を求めてきたら、顧客は心地よく感じないでしょう。また、顧客のビジネス予算も月によって変化するため、現場のトラブルによってIT予算を確保できない場合もあるでしょう。そのような背景をキャッチアップせずに営業していたのが2011年までです。そこで、カスタマーサクセスを通じて顧客満足度を高め、顧客課題を共に解決するために、同部門を設立しました。
(サブスクリプションモデルへ移行した)2012年頃は、社内でも「自分にそれができるのか」「そもそもやり方が分からない」という2つの心理的障壁によって、変革に抵抗する人もいました。そうした心をすぐに変えることは難しいですが、彼らの行動を変化させることで心理的な障壁を取り払い、社内にツールと教育、そしてサポート体制を用意することで、1人1人変えていく取り組みを(小沢氏が主導で)進めていきました。
当時のカスタマーサクセスマネジメントは、「何をやっているのか分からない」と言われ、一番異動したくない部門として扱われていましたが、 (先の取り組みにより)現在では配属希望でトップの部門になりました。同部門では、顧客課題を正しく捉えつつ、グローバルフレームワークをローカライズして分かりやすく伝えながら、課題解決に導いていきますが、顧客からは「ありがとう」と言われることも多いです。米臨床心理学者のフレデリック・ハーズバーグ氏が提唱した「衛生要因」でも語られているように、(同部門は)承認と達成感を得られます。顧客からの承認を重ねることで、自らの地位を高めることができたんですね。
別の角度から弊社を見ると、顧客に対する多数のサービスを必要なタイミングで提供できるようになりました。以前は顧客から「営業に伝えたのに社内連携していない」とクレームを受けることもありましたが、これは顧客へのアタッチが異なるから起こることです。営業はライセンスを販売し、コンサルティングは導入、その後はカスタマーサクセスマネジメントが利用促進を促すという3フェーズを同一のレベルで対峙し、各部門がそれぞれ補完しあうことでサービスレベルを維持できるようになりました。「アドビで良かった」という声は本当に増えています。
——サブスクモデルへの転換や、顧客との向き合い方の見直しなど、アドビにとって本当に変化の大きい10年だったのですね。ところで直近では、マーケティングオートメーション(MA)のMarketo(マルケト)や、EコマースプラットフォームのMagento Commerce(マジェント)などを買収しています。
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