Jobs氏が販売チームに発破をかけていたころ、Appleのエンジニアらは、フロッピーディスクドライブを完成させ、システムソフトウェアや、「MacWrite」「MacPaint」アプリケーションを仕上げるために時間と競争していた。また、生産設備担当のエンジニアは、カリフォルニア州フリーモントに2000万ドルをかけて建設した工場で、生産ラインの微調整を行っていた。この工場はMacintoshを27秒に1台のスピードで製造できるよう作られたものだ。
1983年の夏の時点では、MacintoshにはLisaと同じ5.25インチフロッピーディスクドライブが採用される予定だった。しかし、この通称「Twiggy」ドライブ(1960年代に活躍した、非常にやせていたファッションモデルにちなんで名付けられたと言われている)はエラーを起こしやすく、信頼性が低いことが判明する。Lisaはこの当てにならないドライブでも構わなかった(5Mバイトのハードディスクも搭載していたため)が、Macintoshは、解決策が見つからない限り、発売が無期限に延期される運命にあった。
Appleは8月、ソニー製の容量400Kバイトの新しい3.5インチマイクロフロッピーディスクドライブに狙いを定めた。Jobs氏は当初、日本のアルプス電気と協力して、フロッピーディスクドライブを自社で製造したいと考えていた。同氏が最終的に折れて、ソニー製のドライブに決めたのは、アルプス電気は新しいドライブの供給に18カ月を必要とすることが分かったからだ。
Jobs氏は、ソニー製の400Kバイト外部ディスクドライブを発売に間に合わせたいとも考えていた。ハードドライブがない状態では、ユーザーは何分もかけてディスクを交換することにもなりかねなかった。ファイルマネージャ(「Finder」)の開発に携わっていたSteve Capps氏は、MacintoshのソフトウェアプログラマーだったAndy Hertzfeld氏がMacintoshの歴史を紹介するサイトFolklore.orgで、この問題について説明している。
Macintosh 128Kの一般的なアプリケーションが利用できたメモリは約85Kバイトだ。残りはシステムが使用しており、その大部分がビットマップディスプレイ用だった。単純計算で、400Kバイトのディスクをコピーするのに5回から6回のディスク交換が必要ということになる。5回のディスク交換というのはほとんど我慢できないような回数だが、初期のFinderを使っていた人なら覚えているだろうが、20回を優に超えるディスク交換が必要になる場合もあった。
495ドルの外部ディスクドライブは、1984年1月24日にMacintoshとともに発表されたが、出荷されたのは5月初めになってからだった。
多くのソフトウェアが完成期日に間に合わないなかで、1月18日が、ソフトウェアを完成させ、400Kバイトの3.5インチフロッピーディスクを本体の中に収めて、販売店への出荷の準備を整える日として設定された。新年が近づいても、Finderにはまだ改善が必要な点があり、特にディスクコピーは高速化する必要があった。またMacWriteもバグだらけだった。
工場は発売日に向けてMacintoshを大量に製造する準備が整いつつあったが、Macintoshを格納するプラスチックケースの2つのパーツが、組み合わせることができない状態だった。
Macintoshのハウジングを設計したJerry Manock氏は、次のように話している。「プラスチックのパーツは、米連邦通信委員会(FCC)の検査項目をクリアするために、内側を導電性塗料でコーティングして、コンピュータをシールドする必要があった。ベンダーが塗料をスプレーしたが、工場に到着したパーツを組み合わせることができなかった。簡単に打ち合わせをしてから、われわれはLaszlo Zidek(Appleの生産設備担当エンジニア)の自宅に行き、そこの地下室でアーバープレス装置を製作した。その装置には1つの面を別の面に極めて正確にプレスする、大きなレバーがついていた。それを工場に持って行って生産ラインに加えたところ、うまくいった。こうした変則的な共同作業がこの製品の成功の鍵だった。それは、別々の部門から集まってきたというより、製品を組み立てるために心を1つにした、という感じだった」
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