オンライン匿名性の終焉--単一IDが与える影響を考える - (page 3)

文:Sarah Perez 翻訳校正:川村インターナショナル2008年12月04日 07時30分

適応のための戦い

 この社会は、匿名性の欠落によってもたらされる変化に適応するため、さまざまな方法で努力することになるだろう。週末にFacebookに怪しげな写真を掲載されることで仕事を失い、再就職もできなくなるようになるかもしれない。だが、(承諾も得ずに)他人の顔の前にカメラやビデオレコーダーを近づけて撮影し、そうして得た画像を直ちにインターネットで公開することが社会的に許されていると多くの人が考えるような状況で、パブリックとプライベートの線引きをどのようにしたらよいというのだろう。

 評判に傷がつかないようにするには、「人前では常に最善の行動をとる」以外にない。率直に言って、それは楽しいものではない。悪童たちはもはや夜遊びをしないのだろうか。友だちと馬鹿げた遊びに打ち興じることはできないのだろうか。その通り。その様子を翌朝にインターネットで公開されても気にしないという人以外は、そんな遊びはできなくなる。

 ネット上での匿名性がなくなった場合、自分たちが常に記録され、写真を撮られ、トラッキングされ、トレースされているという事実を十分に認識していることで、本来の自分であろうとするのではなく、若干異なる人格を作り出すことになるのではないだろうか。例えばリアリティ番組の出演者の行動に、見られているという事実により変化が生じるようなものである。自分の「ブランドイメージ」が公共の場におけるアイデンティティとなり、つまりは自分のアイデンティティとなる。

すべてが悪いのではなく、単に違っているだけだ

 現実には、オンラインでの匿名性を失うことは悪いことばかりではないはずで、例えば便利で持ち運び可能なソーシャルグラフが手に入る。ユーザー名やパスワードがびっしりと書かれたノートは処分しても構わない。検索データには1カ所から簡単にアクセスすることができる。ただし、簡単なログイン、検索可能な個人データやウェブ履歴、さらには大勢の友人がいるソーシャルネットワークといった利便性は、その過程で自分自身の一部と引き換えということになるだろう。新しいインターネットでは、自分のアイデンティティと個人情報がサービスの対価となる。われわれが個人データを売った企業が自社の利益のためにそのデータを使ったとしたら、いくら怒っても後の祭りである。われわれにできるのは自分を責めることしかない。

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