薄型ディスプレイ狂騒曲の行き先 - (page 3)

 もちろん、リビングルームでのTVの使われ方は多様化している。単にこれまで通りの放送を楽しむといっても、放送そのものがデジタル化され、高品位化が進み、CATVや衛星などの配信手段も多様化していている。加えて、DVDなどのパッケージコンテンツの視聴やテレビゲーム、そしてインターネットなどの多様な利用の窓口としてTVは機能するようになるに違いない。

 だが、どのようにTVが利用されるようになろうと、結局はTVでしかない。すでに家庭内にあるTVがリビングルームだけではなく各室に置かれてパーソナル利用が一般化しているとはいえ、その台数には限界がある。さらに、いくら下落しているといえども薄型ディスプレイの価格を考えれば、その普及対象は全世界市場を考慮しても青天井ではないことは明らかだ。

 液晶市場の成長のきっかけとなったPC用ディスプレイとしての利用ももちろんあるし、モバイルといった応用もあるだろうが、それらが大型である必要性は薄いし、持ち運びを考えれば無理だろう。

 もちろん、家電メーカー各社の選択の根拠として、巨額の設備投資を考えても世界中の家庭のTVを置き換えるだけで十分に元が取れるはずという議論があるに違いない。だが、それだけでいいのだろうか。その議論の範疇では、必然的にアジア圏の競合のように物量作戦・低価格戦略に対抗する手段は、常に大型化や高精度化による付加価値で回収するという選択肢しか存在しないのではないか。

 デジタルであろうが、薄型であろうが、超大型であろうとも、結局TVである限りコモディティ化という津波を逃れる術はない。では、TV以外の利用や仕組みを考えることはできないのだろうか? それらに単なるハードウェアやパーツとしての利用をするだけではなく、継続的な収益を実現するビジネスモデルを組み込むことはできないのだろうか?

薄型ディスプレイ≒TVを超える価値を生み出すのは誰か

 日本の家電メーカーがセットメーカーである限り、コアパーツである薄型ディスプレイパネルを内製することにはなんらかの意義があるだろう。しかしながら、それに拘泥する必要はない。ましてや、消費者にとって「わあ、おっきい!」という日常化し埋没しやすい瞬間の感動のためにそれらを製造し続ける必要はない。

 合従連衡という手段がディスプレイパネルの領域で活発に用いられているのは前述の通りだ。が、それらはライブドアが今回とったようなこれまでの仕組みを超えるという戦略的価値創造のためではなく、従来通りの市場からの撤退や規模の追及という、一種、体力勝負という泥臭い戦術に依拠した、既存の枠組みという箱庭的な世界内部に限った効率化のための術でしかない。

 もちろん、その意味を否定するものではない。だが、同時にちょっとだけ視界を広げることでその箱庭の向こうに広がるもっと大きな世界に到達するための手段として、薄型ディスプレイというテクノロジーを改めて位置づけることも可能ではないだろうか。

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