2001年3月の終わり頃、それらをSteve Jobs氏に見せる日が来る。プレゼンテーションのための書類(スライドショーが当たり前の時代ではなかった)の作成は、AppleのベテランStan Ng氏が手伝ってくれた。Jobs氏、そしてかんしゃく持ちで名高い同氏の態度への心構えも教わった。「Steveは怒りやすいという話が脳にこびりついていたので、とても緊張した」(Fadell氏)
Jobs氏は、すぐさま書類の束を手に取り、ぱらぱらとページをめくったかと思うと、それを脇に放り投げた。「私が求めているのはこうだ」。Jobs氏はそう言い、会話の主導権を握り、すぐに本題に入るように命じた、とFadell氏は振り返る。
複数のモデルを紹介したとき、Fadell氏はNg氏の教えを忠実に守った。最も良くないモデルを最初に見せ、次に2番目、そして最後に一番のお気に入りを見せたのだ。
Jobs氏は、たちまち興味を示した。
「Steveはそれを持ち上げて、『これを作ることにする。さあ、うちに入って、一緒に作ってくれ』というようなことを言った。私の方は、『ちょっと待ってくれよ』という感じだった」
忘れがちになるが、Appleが音楽プレーヤー市場に参入するのは、成功確実な賭けだったわけではない。「Mac」コンピューターに頼っていた同社の売り上げは下がる一方で、前の四半期には1億9500万ドル(約222億円)の損失を出していた。
Fadell氏も、これに先立つ10年間、「あまり成功したとは言えない」デバイスに取り組んでいたため、誰も買わないMP3プレーヤーを作って、また失望に耐えられる自信はなかった。
当然のことだったが、Jobs氏は自分の考えを貫く。
Jobs氏との数週間の交渉を経て、Fadell氏は2001年4月にAppleに入社する。FuseとGeneral Magicの従業員を集め、後にiPodとなるものを作り上げるチームを編成した。だが、プロジェクトはすぐ暗礁に乗り上げる。チームは、いくつもの新しい部品に取り組まなければならなかったのだ。プロジェクト全体を統括していたRubinstein氏がiPodの重要な部品と考えていた、東芝製の全く新しいハードディスクもその1つだった。
その他のブレークスルーとして、ユーザーインターフェース用の新しいソフトウェアも必要だったし、市場のどの製品もはるかにしのぐ10時間のバッテリー持続時間を実現するために、当時まだ新しかったリチウムイオン電池も必要だった。
その東芝製ハードディスクの格納方法も考えなければならなかった。今や時代遅れとなった回転ディスクだったので、扱いを間違えると損傷しやすいからだ。それを、ポケットに押し込んだり、地面に落としたり、テーブルに投げ出したりもするポータブルなデバイスに収めるのだ。それに加えて、楽曲をスムーズに転送できるように、Appleのファイル転送技術「FireWire」も採用する必要があった。
「何度も、『おいおい、これでいけるのか?』と思う瞬間があった。やってみなければ分からなかった」(Fadell氏)
Fadell氏が確実に分かっていたのは、これを2001年のクリスマス前に仕上げる必要があることだけだった。今日でも、新しいスマートフォンの開発にはおよそ18カ月かかることを考えれば、これは無理難題だった。本格的に着手したのが5月で、それから5カ月で発表だった、とFadell氏は語る。
「文字どおり不眠不休で、週7日働いた」(Fadell氏)
Fadell氏のチームは、伝説的なAppleのデザイナーJony Ive氏が率いるインダストリアルデザインのグループとも協力して、iPodの最終的な外観を決めた。次に予定されているMacは、白と透明プラスチックが基調となるため、AppleはiPodにも同じデザインを採用することになったのだ。
その間に、Fadell氏はAppleで2つのプロジェクトが破棄されるのを目撃しており、それもiPodの完成をさらに急ぐ動機の1つになった(ボツになったプロジェクトが何だったのかは、Fadell氏の口から出てこなかった)。そんなときに起きたのが、2001年9月11日の同時多発テロ事件だ。国中が一時停止状態に陥ったが、その中でも同氏のチームはラストスパートをかけなければならなかった。「もう、完全に常軌を逸していた」(Fadell氏)
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