CEATECでは3D(立体視)テレビが話題の中心だった。
立体視出力に対応した民生量産を前提のフラットパネル・テレビ(ワイアレスの専用シャッターメガネ)とBlu-rayレコーダーの組み合わせを次世代HDMIケーブルで接続。左右別のハイビジョン映像を交互に再生することで立体視を実現するシステムが、比較的廉価に来年春以降に家庭にやってくる。これには、ちょっとした「進化」を感じる。
とはいえ、日本が3D後進国というのも現実。ハリウッド発や主要欧州の映画の多く(特にアニメやアクションなどのタイトルのほぼすべて)が3D+デジタルでの上映が前提となって1年以上経っているのだ。
会場での話題としては「エコ」がダントツだった。しかし、日本が十八番とする「マイクロ化」とその支援要素技術の展示も多くあり、将来性という点ではむしろこちらに軍配が上がるのではないか。それら技術の仮想的な応用領域は、ケータイとその延長上にある「AR(Augmented Reality:拡張現実)」だ。
2007年に放映されたアニメ「電脳コイル」のインパクトは激しく、そのコンセプトの虜になった人も多い。また、ネットワーク・ポータブル機器とクラウド・プロセシングの一般化に伴うライフログにまつわる議論や応用も広く行われるようになっている。また、iPhone向けアプリ「セカイカラメラ」といった先進的な実現例も現れている。
しかし、その本格的な展開となると課題は多そうだ。もちろん、ケータイやITSに代表される社会技術基盤=ユビキタス環境が発達した唯一の先進国である日本の競争優位は大きい。
だが、官主導で整備されたそれらとは異なる生い立ちをしつつあるARの場合、そんな利点が困難にもなりうる可能性がある。また、「モノづくり」という強みも、ローカルからネットへという発想を希薄化させる可能性から、潜在的な「課題」になるのではないか。そんな、「風土」的な課題もさることながら、その現実化の話題に比して入力デバイスの在り方は課題であり続けており、ブレイクスルーが待たれるところだ。
加えて、ネットにつながったサービスを可能にするテクノロジーの多くが直面する課題として、その成立時点で社会との対峙が必須となってくるということを挙げておく必要がある。ARに関して言えば、まずは1つ目の課題として、日本では公的情報源へのアクセスと個人情報の取り扱いといった「情報」に関する法制度との整合性の付け方が挙げられよう。
以前、南カリフォルニア大学でGoogle Earthと複数の街頭カメラ映像などを組み合わせたARシステムを見せてもらったことがある。研究パートナーとしてロサンゼルス市などの行政組織が多数参加していたため、公的なデータベースへのアクセスが可能になったという説明を聞いた。やはり、従来の情報管理手法とは一線を画したやり方が必要そうになるな、と感じた次第。
加えて、より深刻なものとして著作権の取り扱いがある。マッシュアップをダイナミックに行うプロセス・エンジンこそがARでは中核的なテクノロジーとなる。が、それらエンジンの妥当性を担保する既存コンテンツの加工を伴う利用をどのように著作権の法律、その運用実務でどう取り扱うかの議論は、比較的手薄だったのだ。
ARにおける著作権の課題とは異なるが、技術そのものとその利用との関連性を争点にしたものとして、P2PソフトウェアWinnyを開発した金子勇氏の著作権法違反の幇助をめぐる裁判があるだろう。同裁判で金子氏は、10月8日、大阪高等裁判所の控訴審判決で無罪を得ている(一審では、罰金刑)。
必ずしもこのWinny裁判には関わらずとも、デジタル・テクノロジと従来の著作権観念とは相性が決して良くはなかった。デジタルで配信されるコンテンツを記録可能な機器をめぐる著作権補償やその利用を制限する「コピーワンス/テンス」といったデジタル放送の議論もその一部だ。ネットというデジタル環境での利用を想定するとき、コピーは不可避であり、それを制限することを目的とした著作権の概念自体が旧時代的で全く意味をなさないという極端な議論すら飛び出している。
しかし、著作権法の第一章第一節(目的)に「文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。」と明記されているように、本来、著作権法とは利用を制限するためではなく、文化の発展に寄与する=更なる創造を促進するためのものだ。創作者への対価を得られる仕組みがない限り、専門的な分業が必須となるゲームやアニメ、映画といったメディア・コンテンツが真っ先に創作の機会自体が失われ、そして極めて高い天才性を有する音楽や小説などの作家ですら評価される機会が減っていくことは確実だろう。
P2Pの現状のように野放しコピーによってその希少性を起源とする価値が低減されるのであれば、その利用そのものから対価を得られるようにすればよい。(もちろん、その利用回数が多ければ膨大な費用を支払うことになりかねず、それを予期させるだけで萎縮が生じる可能性もある: むしろFREEビジネスの導入などを前提としたほうが妥当だろう)が、その利用をどのように把握することができるのだろうか。また、その把握の結果、対価を求めるためにはどのような手段がありうるのか。
すなわち、コピーを「させない」から「どのくらいした(=再生や鑑賞)」のかがわかればいい。普及の方略は別の議論としても、それを可能にする技術の開発は決して不可能ではないだろう。
だが、技術的な課題を棚に置いたとしても、これまでの著作権がデジタルではない運用を前提として成立してきたことと整合を付けることが問題になりうる。すなわち希少性を演出(露出と利用のコントロール)する発想に基づいて設計されたビジネスモデルに依って立つプレーヤーが、当然の如く反対に回るだろう。また、彼らが多くの資源を抑えているために、変化を望む側は不利な態勢に置かれる。
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