絵文字が開いてしまった「パンドラの箱」第5回--絵文字と日本マンガの親密な関係 - (page 7)

マンガは日本独自のローカル文化なのか?

 さて、ここからが本題ですよ。ここで新たな疑問がおきます。マンガというものは、本当にアイルランド・ドイツ提案が嫌うような、汎用性のない日本独自のローカル文化なのでしょうか? 事実は違います。日本のマンガは、すでにアジア、ヨーロッパ、アメリカで翻訳出版され、たくさんの読者を獲得しています。

 たとえば1990年代初頭から海外におけるマンガ市場をリードしてきたのがフランスです。日本貿易振興機構が今年発表した『フランスを中心とする欧州におけるコンテンツ市場の実態 2008-2009』は、同国においては〈2005年からは販売コミック3冊のうち1冊がアジア(主に日本)のマンガになった、と言われるほどの定着ぶり〉(p.74)と報告しています。

 もともとフランスにはBD(ベーデーと発音、Bandes Dessinees=バンド・デシネの略)と呼ばれる独自のマンガ文化が存在しましたが、〈2008年のBDの新刊は1547点、日本マンガを主とするアジアのコミックは1453点と、非常に接近している〉(同調査、p.67)とのこと。つまり日本マンガの発行点数が現地マンガに伯仲しているのです。

 ヨーロッパではフランスにつぐ市場をもつドイツでも同様で、〈ドイツでの日本マンガ人気はすでに定着しており、一般書籍を扱う書店のほぼ全てで、マンガ専門コーナーが見受けられる。また、駅構内の書店やキオスクには子供向け雑誌や書籍に加えて、マンガの単行本のみを置く回転スタンドが数本設けられ、コミック販売に重要な役割を果たしている。〉(『ドイツにおけるコンテンツ市場の実態』日本貿易振興機構、2009年、p.38)と報告されています。

 ではより多くの人口を持つアメリカではどうなのか。この国はフランスとならんでマンガを積極的に受け入れてきました。アメリカで日本マンガは「グラフィックノベル」という単行本の形式に属します。これは子供向けの薄い月刊誌である「コミック」(アメコミ)に対し、おもに大人を対象とした厚めの単行本を指します。ここにはアメリカのコミック画集、韓国のマンファ(manhwa/マンガ)なども含まれますが、その多くは日本のマンガです。このグラフィックノベルの売上げが2006年に3億3000万ドルになり、ついにコミックの3億1000万ドルを抜いてしまいました(『北米におけるコンテンツ市場の実態2008-2009』日本貿易振興機構、2009年、p.40)。

 ただし、2008年秋のリーマン・ショックの影響は大きく、それまで右肩あがりに成長してきたマンガは<2009年に出版されるマンガのタイトル数が、2008年に比べて10%ほど下回るであろうという見通し>(同報告、p.40)という厳しい状況を迎えつつあるようです。同様の傾向は前出『フランスを中心とする欧州におけるコンテンツ市場の実態 2008-2009』も指摘しているので、もしかしたらこれは世界的な傾向なのかもしれません。同時に違法コピーの存在も売上げに影を落としているようです。

 とはいえ、ここまで流通している日本マンガが一朝一夕に消えるはずもありません。つまり世界において日本のマンガは、どんどん売上を伸ばす普及期を終え、山あり谷ありの成熟期に入ったのが現状だと言えましょう。

日本のマンガが世界に受け入れられた理由

 それにしても、どうして日本のマンガはここまで世界に受け入れるようになったのでしょう。ここで重要なカギを握るのが、さきに詳しく見た水滴の表現に見られるような、日本マンガの繊細な感情表現です。

 日本のマンガが大好きなのは欧米だけではありません。中国の若い世代に日本のマンガやアニメ(中国語で「動漫」。動=アニメ、漫=マンガ)がどんなに大きな影響を与えているのか、その実態を報告した『中国“動漫”新人類』(遠藤誉、日経ビジネスオンライン、2007年)という興味深い記事があります。筆者は中国の理系エリート大学である清華大学の動漫サークルを訪ねます。そこで彼が驚いたのは、サークルの全員が流暢な日本語を話すことでした。それはいったい何故なのか? 少し長くなりますが若者達が答える場面から引用しましょう。

「日本の動漫を見て、そのコンテンツをもっと深く理解したくなり、第2外国語として日本語を履修したんです」とのこと。東京の町中でも耳にするような「ッつうか――」という若者言葉を頻繁に使うあたりからも、それが事実だと分かる。日本語の授業ではこういう言葉は教えない。

 言葉を覚えてしまうほどに、日本動漫に心を奪われたのはなぜなのだろう。

 「あのう、こ、恋とか……愛とか、そういうのって、誰の心の中にもあると思うんですが、でも中国の漫画は、そういうことはあまり語ってはいけないから……。でも日本の漫画はありのままの気持ちを正直に描いているので、ああ、こういうことを正直に描いていいんだなぁと思って、すごく惹き付けられて……」

 と、于智為君は恥ずかしそうに口ごもった。(「中国清華大学の「日本アニメ研」が愛される理由」)

 じつに面白いですね。思い出してほしいのが、さきに引用した図9の『包丁人味平』のシーンです。あのコマで描かれた表情は、よく「ガーン」という擬音とともに描かれ、ひとまず「強いショック」を表すものと言えます。

 しかしそれだけではありません。同時にこの表情は心の中で色々な感情が渦巻いている様子、つまり内面の葛藤をも表しています。『包丁人味平』のコマで言えば、セリフとして言われている「お、おれの鼻が…舌が…、きかなくなっている!」だけでなく、読者はこの表情を見ることで、同時に味平の心の中で渦巻いているであろう「おれは、どうすればいいんだ!!」という描かれていないセリフを聞き取り、そうすることでストーリーにより深く感情移入をうながされます。こういう描かれていないことまで表現してしまう技法こそが日本マンガのお家芸です。

 日本のマンガは水滴だけでなく、大量の複雑な感情を表す表現方法を開発してきました。よく日本の少年マンガのテーマは「友情・努力・勝利」だとか、少女マンガの主要なテーマは恋愛だとか言われますが、それらはすべて、こうした繊細な感情表現があって初めて達成できることに注意してください。つまり、中国の若者が「ありのままの気持ちを正直に描いている」と感じたものの正体は、じつのところ、これら日本マンガ独自の感情表現に他ならないのです。

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