高度IT人材の不足が叫ばれるなか、1000人を超えるエンジニアを抱える企業がある。ソフトウェア・サービス開発でベトナムを中心に雇用を広げるSun Asteriskだ。日本と海外の拠点を密に連携させ、主にスタートアップ企業のソフトウェアやサービスの開発を支援している。さらに、最近では大手企業の新規事業開発や、企業の事業成長を加速させるブーストにも独自の手法で携わり、事業の多様化も進んでいる。
同社の創業は2012年。わずか数年で従業員数を大幅に増やし、急速に成長していることも驚きだが、それ以上に驚きなのが、創業者の1人でCEOの小林泰平氏のキャリアだ。10代でホームレスを経験後、ライブハウスの店員からエンジニアに転身。そこから、1500人規模の企業の経営者となった。そんなダイナミックな半生や、ベトナムに商機を見いだすまでの経緯を小林氏に語ってもらった。
——Sun Asteriskは、どのような会社なのか教えてください。
主に企業のソフトウェア開発やサービス開発を手がけている会社です。UXを含め、クライアントと一緒に事業づくりを考えるところから始めて、実際のソフトウェア開発とサービスのリリース、その後の運用をワンストップで提供しています。
一言で言うと「アイデアを形にするためのデジタルクリエイティブスタジオ」ですね。僕らは「Awesome!」って呼んでますけど、BetterなものとかGoodなものじゃなくて、「おっ!すげえ!ヤバイ!」みたいな心揺さぶるものを常に突き詰めようと。そこに再現性はないかもしれませんが、そんな言葉を「クリエイティブ」に込めています。
会社のビジョンは、世界中の社会活動をしている人全員が、自分がやりたいと思ったことにチャレンジできる環境やインフラを作ることです。物を作りたいけれどそのスキルがない人たちに対しては、エンジニアがお手伝いするから大丈夫ですと言いたいし、お金がないんだったら投資しますし、アイデアが出ないなら一緒にアイディエーションから始めましょうと言っています。
世界中の「チャレンジしたい」という思いだけでは足りないピースを僕らが埋めていきたい。世界中にある才能の種、アイデアの種、思いの種をちゃんと照らして育てて、最後のアスタリスクで掛け算して価値を生み出していく。そういうことをコンセプトにしている会社です。
——現在、ベトナムの拠点には1000人を超えるエンジニアがいるそうですね。
ベトナムをはじめとする海外拠点には今はエンジニアが約1300名、日本の拠点には子会社も含めて約200名いて、合わせて1500名ほどの従業員がいます。日本側でサービスの構想や全体設計をして、それがある程度できたらベトナム側でゴリゴリ開発していくという役割分担が多いですね。
ベトナムでITビジネスやITベンチャーのような、toC向けのIT関連サービス自体が目立ってきたのが、ここ5〜6年くらいの話なんです。でも急成長していて、2016年頃のベトナムのITスタートアップ市場への投資額は300億円程度でしたが、2018年には900億円に拡大しました。ベトナムではみんな新しいサービスを手がけるのが初めてなので、今はテクノロジーで開発するというところに特化してもらっています。
ただ、ソフトウェアやUI/UXを開発するエンジニア・デザイナーは育てないと生まれないので、教育事業、タレントデベロップメントと呼んでいるのですが、人や人の才能を育てる事業も進めているところです。1つはベトナム現地の大学との提携ですね。大学にIT選抜コースを開設して、5年かけて高度IT人材でかつ日本語を喋ることができる人材を育成する事業を行っています。自社で日本語のできる先生や日本語でITを教えられる先生を20~30人ほど抱えて運営しています。
そこの卒業生は日本語を勉強していることもあって、日本に就職を希望することが多い。なので、日本の企業と学生をマッチングさせるミーティングを開いて、それを企業にスポンサードしてもらっています。学生を1人採用したら報酬をいただくというやり方ですね。大きな収益が上がるものではありませんが、独立採算で回せています。あとはITスクール、プログラミングスクールも展開しています。
——事業については後ほど詳しく聞いていきますが、まずは小林さんのこれまでのキャリアを振り返っていただけますか。過去にホームレスを経験し、その後に経営者へと転身されたそうですが、どのような経緯で今に至るのでしょうか。
最初からお話をしますと、僕は中高大一貫校の早稲田実業に中学受験で入ったんです。小学生の時は勉強が好きで、全国模試がめちゃくちゃ楽しかった。点数が出て、ランキングが出るのって燃えるじゃないですか。頑張って進学塾の模試で1位をとったりもしました。
ところが、中学校に入学したことでやりがいがなくなったんです。中学校は成績のランキングを出さないので、一気に興味を失ってしまい、まったく勉強しなくなった。そこでのめり込んだのが音楽であり、バンド活動でした。
——それで金髪のビジュアルなんですね。
ここで見た目とつながった、みたいな感じですよね(笑)。それ以来、いわゆるレベル・ミュージックみたいなものに見事にはまってバンド活動に精を出すようになり、中学3年生頃にはライブハウスでライブとかしていて、ほとんど中学校には行きませんでした。スタジオにいる方が楽しいし、ギターの練習がしたくて。
高校は入学しましたが、見事にまったく行かなくなって、それでも進級できると言われたけれど、意味がないように思えてきました。学費も払い続けているし、親に申し訳ない。というか「むしろ学費を払うくらいなら俺に金くれよ」くらいの感じに思っていた(笑)。で、退学したわけですけど、親に言ったらめっちゃ怒られる。だから、バレないように制服着て通学しているフリをしたり……。
でも、さすがに3カ月でバレて、親には学校に通うなら大学までは養ってやる、音楽をやるんだったら1人でやれと言われて、音楽がやりたかったから普通に家を追い出された(笑)。150円しか持ってないのに。友達の家に泊まらせてもらったりしたんですけど、みんな学校に通っていて、毎朝「いってらっしゃい」って送り出すのも変だし、さすがに友達の家はやめて、じゃあ「ちゃんとホームレスをやろう!」と(笑)。それでホームレスになったわけです。ホームレスをしながらも一応バンド活動はしていました。
——寝泊まりとかはどうしていたんですか。お風呂とかは……。
お風呂はほとんど入ってなかったですね。だから超クサかったし、公園とかで水浴びしてました。寝泊まりはダンボールを敷いて寝ると。新宿の中央公園とか、原宿の宮下公園とか。宮下公園はトイレの上が風避けにちょうど良くて、高齢のホームレスの人には登れないところにあるから安全だなあ、とか思ったり。そんな生活を16歳から17歳まで、1年半続けました。
——プロですね(笑)。
身分証もない状態で、まともなバイトもできない。それでもお手伝いの仕事で生活できるお金は稼いでいました。新宿のクラブではライブやイベントをやらせていただく機会もありました。ただ家がないから、そのクラブのライブが終わった後に外で寝てたら、クラブの店長に見つかって、その人の家で住み込みで働かせてもらうことになったんです。そこで6年ほど働いて、最後には副店長にもなりました(笑)。
ちなみに、そのクラブは有名なアーティストが遊びに来るような店で、ノリでライブをやってくれたりするんですけど、そういう人たちと演奏していて、さすがに自分にはその人たちのレベルまでやれる才能はないなと思ったんです。音楽自体はすごく好きだけれど、これをやり続ける必要はないのかなと。
働いていたクラブでも毎日お酒を飲まなければいけなかったので、さすがにこの生活を続けたら身体を壊すと思って、キリのいいところでやめて就職しようと思いました。ところが、履歴書選考は必ず落ちるんです。高校中退、クラブで働いてました、6年間空白の期間があり、今就職しようと思ってます。そんなの受かるわけがない。
——確かに、その経歴では就職は厳しそうですね。
それはさすがに自分でもわかっていたので、履歴書の選考がないところはないのかなと思って(笑)。そんなときに唯一、プログラミング未経験OKで、選考は筆記テストです、という会社を見つけました。テストは5時間、数学とかを解くような内容で、それに受かったら履歴書を提出してくださいと。
そこの会社の社長も面白いなと思ったんです。会社のホームページでその社長の言ってることが、結論は自分が考えていることと一緒なんですけど、それをすごくロジカルに説明していて、すげえな、こういうふうにしゃべれる人ってかっこいいな、その人と話してみたいなと思ったんですね。
結局テストにチャレンジして面接して、合格できました。そこの社長のもとで鍛えていただいて、それはそれですごく楽しかった。それがITとの出会いでしたね。
CNET Japanの記事を毎朝メールでまとめ読み(無料)
ZDNET×マイクロソフトが贈る特別企画
今、必要な戦略的セキュリティとガバナンス
ものづくりの革新と社会課題の解決
ニコンが描く「人と機械が共創する社会」