3月30日、ベルサール秋葉原にて行われたセガグループのイベント「セガフェス2019」において、1994年に発売された家庭用ゲーム機「セガサターン」をテーマにした「セガサターン25周年大感謝祭ステージ」が開催。セガサターンにゆかりのある関係者のほか、テレビCMなどでプロモーションキャラクター「せがた三四郎」として活躍した藤岡弘、さんもゲストとして登壇。当時を振り返った。
進行役として、当時メディアの立場としてセガサターンの盛り上がりを見ていた元週刊ファミ通編集長の加藤克明氏と、元ゲーマガ編集長の梅田浩二氏が担当。前半部分では、当時セガサターンの事業部長を担当していた、セガホールディングス代表取締役社長COOの岡村秀樹氏と、プロモーションの責任者を務めていた、トムス・エンタテインメント常務取締役(※登壇時。現在は代表取締役社長)の竹崎忠氏も交えてトークが進行した。
梅田氏はかつてセガのAM2研の広報を担当し、後にセガサターンの専門誌であり、ゲーマガの前身にもあたるセガサターンマガジンの編集者としても活躍。また竹崎氏は、国内で発売されたメガドライブのソフトを全て個人所有しているほどの熱心なファンとして知られており、加藤氏が自宅まで取材したほど。そんなメンバーだけに、トークも熱を帯びたものとなっていた。
セガサターンが発売された当時は、ゲーム業界が急速に拡大し「次世代ゲーム機戦争」と呼ばれ、一般でも注目を集めるような状態にあったという。加藤氏もゲームメディアが一般マスコミの取材を受けるような時代でもあったと振り返る。また梅田氏は、「3DO」や「プレイステーション」など大手家電メーカーがゲーム機に参入したことにも触れ、ゲーム人口が急速に拡大しムーブメントが起きていたと話していた。
加藤氏は、当時の国内コンシューマ向けゲーム機市場において、任天堂が大きな存在感を示していた一方、セガはアーケードでは強かったものの、コンシューマではもうひとつという状態だったと振り返る。それでもセガサターンでは「バーチャファイター」をはじめとする、強力なアーケードゲームの移植作によって「これは、サターンは行けるんじゃないか、という雰囲気はあった」と語る。
年表をもとに振り返るなかで、岡村氏がセガサターンの名前について触れる一幕があった。話した内容によれば、もともとサターンは開発コードネームとして付けられていたものであり、その後正式名称を検討したが、最終的にそのまま付けられたことを明かし「セガとしても珍しい事例」という。
また、セガサターンは当初ゴージャスなカラーリングにしようとして、発表会ではシャンパンゴールドとしてお披露目したそうだが、塗装のコスト削減のため、初期に販売されたセガサターンはグレーの落ち着いたカラーリングになったという。竹崎氏は、カラーリングの理由にコスト削減とは対外的に言えないため「ワールドワイドでの趣味嗜好などを調査した結果」というもっともらしい理由を付けたと、いまだから話せることとして明かした。
セガサターンといえは今でも印象に残るようなCMも特徴。岡村氏は製品の良さや魅力だけではなく、いかにインパクトを持って市場に投入するかが大切という観点で、「見た人や触れた人が、目をつぶると映像や音楽がリフレインするぐらいに刷り込むのが広告戦略の基本。なので“インパクト一本槍”で決めた」と語り、初期に展開された、とんがり頭の土星人が登場するCMが作られたという。
さらに、岡村氏が「日本の広告業界では、禁断の園と言われている領域に足を踏み入れてしまった」と話していたのは、“セガール”と“アンソニー”という2匹のサルが、ゲームを遊んでいる様子を映し出したCM。岡村氏は、こういったCMを投じるぐらい激しい競争が繰り広げられたという背景があったとし、そのなかでも話題になるぐらいのアピールをしたかったと振り返る。そのうえでこのCMは「ギリギリの節度を保つのに苦心した」とも付け加えた。
ほかにも岡村氏は、競合メーカーが打ち出した「いくぜ、100万台」に対して、セガサターンでは「ありがとう100万台!」のキャンペーンを急遽展開するなど、当時の熾烈な競争関係をうかがわせるエピソードも飛び出した。梅田氏は、こういった競争による展開があるからこそ、多くの人が注目するような状態が作られていたとまとめた。
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