1946年に京都で創業した、日本を代表する衣料品メーカーであるワコールにとって、マーケティングは決して簡単なものではない。日常生活に不可欠なインナーウェアを中心にビジネスを展開してきた同社にとって顧客はすべての年代に及び、商品ブランドは対象となる顧客のニーズに合わせて細分化。そして顧客とのタッチポイントも、リアル、デジタルともに年々複雑化しているのが現状だ。こうしたビジネス環境において、同社はどのような考えのもとでマーケティングを遂行して業績につなげ、またどのような課題に挑戦しているのだろうか。ワコールの執行役員で総合企画室 広告・宣伝部の部長である猪熊敏博氏に話を伺った。
――まずはワコールのマーケティングに対する基本的なスタンスについて教えてください。
猪熊氏:まずは私たちワコールのブランド・ヒエラルキーを紹介させてください。ワコールでは会社としての「株式会社ワコール」というブランドの下に、「ワコール」「ウイング」「ワコールディア」「CW-X」という商品ブランドがあり、そしてそれぞれの商品ブランドの傘下に更に細かくサブブランドが展開されているという構造を持っています。消費者のニーズに合わせたプロダクトアウトによってブランドを形成してきたのです。こうした多岐にわたるブランド・ヒエラルキーを展開しているが故に、"何をもってワコールのブランドなのか"というブランドの定義は非常に難しい部分ではあります。
こうした「ワコール」というコーポレートブランドを中心にしたコミュニケーションから、個別の商品ブランドを中心にしたコミュニケーションへの転換は、21世紀に入って顕著になっています。消費者のニーズは多様化が進み、「ワコール」というブランドだけでは消費者との対話が難しくなってきました。個別の消費者セグメントに最適なブランドを届けるというブランディングが求められるようになったのです。
ただ悩ましいのは、消費者とブランドとの接点もブランディングの難しさを生み出している点です。ワコールの中心的なビジネスモデルは百貨店や総合スーパーなど小売店への卸売であり、(独自に店舗を展開しているブランドとは異なり)ワコールというブランドは小売店のインナーウェア売り場の一部になるわけです。ワコールにとって顧客のブランド体験を生み出せるのは商品を購入する売り場であり、最も重要であるものの、そこで“ワコールというブランドを体験しよう”という空気感を生み出すのは簡単なことではありません。更にその傘下のブランド体験を生み出すのはもっと難しくなるわけです。
小売店は競合店舗に負けまいとして売り場の個性を生み出そうとします。つまり隣の店と同じことをしていてはダメで、何か店舗ならではの売り場の作り方で個性を生み出そうとします。小売店のインナーウェア売り場は「ワコールらしさを表現する場」である以前に、「小売店が競合に負けないための個性を表現する場」であるという大前提を理解したマーケティングを考えなければなりません。こうしたことから、それぞれのブランドに個性を持たせても売り場の中では売り場の個性がブランドイメージに大きな影響を与え、ブランドそのものの個性を希薄化させてしまう面があります。こうしたビジネス環境で、どうやって個別のブランド価値を伝えて顧客体験を生み出していくかは、他の業界にはない難しい課題ではないでしょうか。
――個別セグメントに最適化されたブランドの訴求を、デジタルマーケティングを通じて推進するという動きは多くの企業で見られています。
猪熊氏:もちろん、デジタルマーケティングの登場によって個別の顧客ターゲットに対するアプローチは非常にしやすくなっていると思います。しかしながら、インターネットを通じて商品の良さやブランド価値を届けることができ、消費者の購入意欲が高まったとしても、いざ小売店のインナーウェア売り場に行ってみると、欲しい商品が見つからないというシチュエーションは残念ながらよくあることです。こうしたカスタマージャーニーの中にある課題を解決することも、ワコールのブランド価値を高めるためのマーケティングにとって重要なことではないかと考えています。
加えて、デジタルマーケティングではブランドごとに個別のイメージを醸成してブランディングをすることができますが、一方でブランドイメージと小売店の売り場はそれぞれに個性を持っているため、その間にはイメージのギャップが生まれます。インターネットでチェックして気に入って、実際に売り場に見に行ってみると「なんか違う」ということはよくあることなのです。これはデジタルマーケティングがどれだけ進化しても、解決が難しい課題なのではないでしょうか。
ワコールのマーケティング活動における背景には、こうしたさまざまな課題を抱えながら多岐に渡る情報流通チャネルを駆使して消費者にアプローチしていかなければならないという難しさがあるのです。ユーザーエクスペリエンスの醸成はマーケティングの重要なテーマではありますが、そこにまるごと賛同できないのは、こうした厳しいマーケティング環境があるからではないかと思います。
――おっしゃるとおり、メーカーというのはなかなか売り場でリアルな顧客との接点を生み出しにくいでしょう。
猪熊氏:あるといえばあるのです。一部の売り場には「ビューティーアドバイザー」と呼ばれる販売員を配置しているため、ここを通じて顧客体験を生み出すチャンスがあります。ビューティーアドバイザーはまだ和装が中心だった戦後すぐに創業したワコールが、洋装の文化を啓発、普及させる目的で生まれたスタッフです。ワコールは商品=インナーウェアを生み出すだけでなく、その商品をどう使うのか、スタイリングの中でどう活かすのかといったアドバイスをしながら、服装文化を作りビジネスを展開することを重視してきました。これは創業時から今でも続く企業姿勢です。
ただ、小売店の売り場ではメーカーの販売員であっても小売店のスタッフとして同じ制服で活動するため、消費者からは「この人がワコールのビューティーアドバイザーだ」とわかってもらいにくい課題もありますね。そのため、ここで消費者に対してエンゲージメントを高めていくのは容易ではないという状況です。
そもそも売り場では色々なメーカーの商品が売り場の個性によって渾然一体と配置されています。そこで消費者が「メーカーで商品を選ぶ」というのは、相当なエンゲージメントがなければ起きない行動なのです。こうした「指名買い」をしてもらえるブランドを目指すのが、これからのマーケティングであると言えるでしょう。
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