絵文字が開いてしまった「パンドラの箱」第7回--そして舞台はダブリンから東京へ - (page 7)

WG 2が拒めない理由

 どうやら、提案書を作るメンバーは心配しなくて済みそうです。しかしいくら友人でも、多忙な彼等が引き受けてくれでしょうか。たぶん大丈夫です。彼等ならぼくが作った顔文字の表を見れば、この問題の深刻さをすぐに理解してくれます。忙しければ忙しいなりに、何かしら手伝ってくれるはず。本当に大義があれば人は手を差し伸べてくれるものです。

 むしろ見極めが必要なのは、このプロジェクトの成否です。実際に提案するとして、WG 2はこれを受諾するでしょうか。個人の寄せ集めの提案など、WG 2は取り合ってくれるでしょうか? ぼくはぼんやりと窓の外を見やりました。すぐ前を通る歩道を、女子高生がうつむいて携帯電話でメールを打ちながら歩いています。──器用なもんだ。きっとあの子も絵文字を使っているのだろうな。

 そう思いながら店内に目を転じると、少し離れたボックスシートで若い主婦が一人で携帯電話に何か打ち込んでいるのが目に入りました。いえ、彼女だけではありません。カウンターに座っている外回りの営業マンらしいお兄さんは、スパゲッティを食べながら片手に持った携帯電話をのぞきこんでいます。店の奥で遅い昼食をとり終わったおじさんが、やっぱり携帯電話に見入っています。それを見ながらぼくは腹を括りました。

 やるべし。大変だろうけれど、やるべし。

 ぼくがこのまま何もしなければ、文字が化けて不便な思いをするのはこの人達です。でも、この人達はこれっぽっちもそんなことは知りません。当然のことです。たぶん世の中というものは、それぞれの人が、それぞれの持ち場を守りながら、どうにか動いているのだと思います。それは大きかったり、小さかったりするかもしれませんが、その人にしか守れない持ち場です。この顔文字の問題に気づいているのは、ぼくだけのようです。自分の持ち場だから気づいたのです。ならば、やるべきことをやるまでです。

 おそらくWG 2は受諾します。その理由はこのファミリーレストランの店内にあります。この国では誰もが携帯電話を使っています。日本の人口は約1億3000万人。小さな子供やよほどのお年寄りを除いて、携帯電話のユーザーは1億人程度でしょうか。その端末のほとんどは絵文字が使用可能であるはずです。顔文字の入ったPDAM8がそのまま通れば、その半数近くが文字化けすることになります(※4)。この約1億台という数字は、アメリカや中国よりは少ないかもしれませんが、ドイツ、フランス、韓国よりはずっと多いでしょう。WG 2がこうした明白な間違いを指摘されて、無視できるはずがありません。そんなことをすれば自殺行為です。

 また、ここまで絵文字の審議では、原規格のオーナーであるはずの日本のキャリアは積極的な発言をしていません。たしかにダブリン会議でキャリア3社からの声明が出されましたが、それはGoogleが仲介しなければ出なかったはずです(前回参照)。自分達の規格が審議されているというのに奇妙なことです。WG 2の人々は居心地の悪さを感じているでしょう。まるで自分達が勝手に話をすすめているみたいじゃないか。そこに日本のユーザーが声を上げれば、大義名分がたってWG 2にとっても都合がよいはずです。その上、次回の会議は他ならぬこの東京で開催されるのです。アウェイでなくてホーム。これ以上の地の利はありません。

 つまり、東京会議の机の上にぼくたちの提案書をのせることができさえすれば、彼等はそれを拒まない、いや、いっそこう言い直しましょう、拒めないはずだと。むしろ提案書を作ることの方が大変です。実際の話、これから東京会議まで1カ月ちょっとの間、ぼくは友人達を巻き込んで必死になって作業しなければなりません。それはこのCNET Japanの原稿の掲載が大幅に遅れるだけでなく、他の仕事もできないことを意味します。お恥ずかしい話ですが、それでなくても不況で仕事が減っています(仕事ください)。それを放り出せばどうなるかは目に見えています。

 それでも、やるべし。偉そうなことばかり書きましたが、本当はWG 2の公式文書に自分の名前が掲載でき、それが文字通り世界に公開される魅力に抗えなかったことも事実です。うまくいけば、今まで議事録で想像するだけだった本会議にも出席できるかもしれません。なんたって開催地は東京なのですから。それと引き換えに大変な苦労をするとしても、文字コードを取材してきた者には千載一遇のチャンスです。

 問題は自分の見通しが間違っていないかどうかだな。──ノートパソコンを閉じて帰り支度をしながら思いました。ぼくは今まで数え切れないほどミスをしてきました。この見通しだって、いくつもの仮定の上に成り立った細い一本道のようなものです。落とし穴が潜んでいない保証はありません。というより、きっとあるでしょう。ぼくは不安をバッグに押し込めると、会計を済ませるためにレジに向かいました。すべては東京会議が終わる約1カ月後には明らかになっているはずです。

つづく

※4)お詫びと訂正

訂正前

絵文字の入ったPDAM8がそのまま通れば、その全てが文字化けすることになります。

訂正後

顔文字の入ったPDAM8がそのまま通れば、その半数近くが文字化けすることになります。

短い後記

 第5回で「次こそ最終回」と書きました。しかし、ここまで書いたような理由で、第7回になっても終えることができませんでした。また、第5回から5カ月も間隔が開いてしまいました。事態が思わぬ方向へ行ってしまったからとは言え、読者の皆さんにはお詫びしなければなりません。

 上に書いたような理由で、この連載はもう少し続けさせていただきます。しかし、何回になるか分かりませんが、東京会議が終わったところで終了することをここで宣言しておきます(あと2〜3回程度の予定)。そうでないと、年末まで続いてしまいそうです。

 ただし、次にお目にかかるのは、同じ絵文字でも別の内容になるでしょう。この連載はGoogleが2008年11月に絵文字のUnicode収録計画を発表した時点以降を追ったものです。しかし、それ以前のストーリーがあるのです。どのような経緯によって、Googleは絵文字をUnicodeに収録しようと考えるに至ったか。

 少しだけネタを明かすと、そこにはモバイル版Gmailの絵文字対応がありました。そのプロジェクトの成果がUnicode収録だったのです。文中にあるように「絵文字互換用文字」がGmailで使えるのはその証拠です。これについてGoogleの担当者にインタビューをしました。次回はそちらの原稿を先にお届けしようと思います。

 WG 2に修正案を提出することになったきっかけは、全てこのCNET Japanの連載にあります。これからも皆様の支持をいただければと思います。では、なるべく早くまたお目にかかりましょう。

小形克宏

1959年生まれ、和光大学人文学部中退。

2000年よりJIS X 0213の規格制定とその影響を描いた『文字の海、ビットの舟』を「INTERNET Watch」(インプレス)にて連載、文字とコンピュータのフリーライターとして活動をはじめる。Twitter IDは@ogwata。ブログ「もじのなまえ」も更新中。

主要な著書:
活字印刷の文化史』(共著、勉誠出版、2009年)
論集 文字―新常用漢字を問う―』(共著、勉誠出版、2009年)

主要な発表:
2007年『UCSにおける甲骨文字収録の意義と問題点』(東洋学へのコンピュータ利用第18回研究セミナー
2008年『「正字」における束縛の諸相』(キャラクター・身体・コミュニティ―第2回人文情報学シンポジウム
2009年『大日本印刷における表外漢字の変遷』(第2回ワークショップ: 文字 ―文字の規範―)。

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