ITやメディア、コンテンツの領域は、新しモノ好きの人が多いのではないか。しかし、新しモノといっても、その枠組みや構造そのものの変化となると及び腰になってしまうことも多い。変化が大きかったはずの今年の日本だが、果たして僕らは本当の意味での変化の経験をデザインできたのだろうか。
先日、某大手エレクトロニクス企業の幹部の方とお話をしていて「世界のトヨタがどうして、なぜF-1から撤退しなければならないかわからない。業績の落ち込みも、世界不況に伴う一時的なものでしかないだろうに」と発言されていた。それを聞いて面白いなぁと思った。
12月15日から日本でも始まったウォールストリートジャーナル日本語版に、面白い記事が載っている。「ベンチャー・キャピタルに代わる新手勢力の登場(米国版ではVenture Capitol: New VC Forceとして、より詳細な記事を掲げている)」で、米国ではグリーンやエコといった領域でベンチャー・キャピタル意外に、政府(DOE:エネルギー省)が積極的にベンチャー企業を支援している現状が描かれている。
日本では、弱まった大企業を助けることに政府系の資金は投入される傾向が強い。いや、政府系だけではなく、プライベートエクイティなどのファンドですらそうだ。確かに、米国でも雇用維持のためにGMなど没落しつつある自動車産業へ政府は資金投入を行った(金融機関への資本注入は性格が異なるので、あしからず)。
上記のWSJの記事によれば、GMの旧デラウェア工場をハイブリッド/電気自動車ベンチャーのフィスカー・オートモティブに斡旋し、その購入費用を融資している。そんな政府からの資金提供を、ベンチャー・キャピタルに代わる資金源とWSJは言っているのだ。フィスカーはそこで各地から集めた部品モジュールを組み上げる、ほかにはない規模のラインで製品の大量生産が可能になった。これまでの自動車産業をある程度維持しながら、新たな自動車産業を生み出すためには、この政府の支援は理想的に思える。
そんな政府の支援を得て急成長するフィスカーのように、昨日までは姿かたちもなかった自動車メーカーと、内燃機関自動車の雄トヨタは戦わなければいけない。同じ自動車といっても、パソコン=モジュール化されたコモディティ部品で構成された製品を作り上げる方式は、「電気」自動車ではいとも簡単に導入できる。もう「自動車」と思わないほうが賢明なほどだ。もちろん、製品として、ヒトが移動に使うツールという点では同じ機能を提供するかもしれない。が、その製品とそれを製造するコンセプトそのものは全く違っていると思ってもいい。自動車としてのパラダイムシフトがここにある。プラグインハイブリット車(PHB)や電気自動車(EV)の背後には、スマートグリットとの連携可能性が含まれている。自動車だけではなく、電力そのもののあり方のパラダイムシフトもそこには重複して存在しているのだ。
すでに古典とも言えるクレイトン・クリステンセン氏の『イノベーションのジレンマ』の原題は「イノベーターのジレンマ(The Innovator's Dilemma; When New Technologies Cause Great Firms to Fail)」。同書は、イノベーションそのものがジレンマを生じさせるのではなく、イノベーションを生み出したイノベーターには、その成功体験やイノベーションを受容した顧客イメージをいつのまにか固定化させてしまい、技術や需要のあり方を見過し、見過ごしてきた技術領域の勃興により没落する傾向が強いという警笛を鳴らした。
今後、同じく米国政府が支援した自動車企業であっても、旧来全としたGMやFordではなく、異民族・異文化由来のフィスカーのような新参との戦いに臨まなければならないということを、「アメ車」を蹴散らかしたイノベーターたるトヨタは気がついているのだろう。だからこそ、GMを破って旧「自動車」時代で一位になっても、PHBやEVなどが中心となる新「自動車」時代ではどうなるか全くわからない。旧「自動車」業界を象徴するF-1からの撤退は、イノベーターのジレンマを否定するためには必要不可避な象徴なのだ。これは、確かに歴史から学べるひとつの「知」かもしれない。
日本人は「新しいモノが好き」ということで知られている。しかし、上記のトヨタのように、深いレベルでの決断を伴うイノベーションの受け入れは、意外とされていない。表面的な受容に限定されることが多いのだ。例えば、積極的にホワイトカラーレベルでITを取り入れるようになって10年強が過ぎたが、「清書マシン」や「表計算電卓」、あるいは「図表描画支援」以上の利用がどれほどなされるようになり、業務プロセスそのものの改善がいかほどになされたのか疑問だ。紙がペーパーレスにはなったものの、その利点を生かした構造そのものの見直しという点では甚だお寒い状況にあり続けているのではないか。
今、僕が生業としているアニメ領域のビジネスでも、世界的にはコンピュータグラフィックスによる制作が主流となりつつある。しかし、「人の手によって、この世に自然と存在しなかった画像が、映像として構成される」という点においては、日本の十八番である手描きのセル・アニメ(といっても、もう「セル」は使わないが、依然としてそう呼ばれている)でも、粘土や人形を使ってコマ撮りをするアニメーションであっても、そしてCGであっても定義からは逸脱しない。しかし、映像そのものの制作プロセスはそれぞれ全く異なっている。が、ストーリーや世界観、キャラクターが優れていなければいけない、という点においては、どのような表現・製造手法を用いても変わらず大切であり続ける。しかし、僕らは、あの作品はCGだからうんぬん、あるいはセル・アニメの強みを生かして、という話をしたがる傾向にある。
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