この国を憂うのは尚早か--2007年を振り返る

 テクノロジーを身近に感じる人にとっては大きな変化がここ数年続いているが、社会制度はその変化に抵抗していると感じることが多い。他先進国でも、テクノロジーによる社会変化に伴う軋轢は生じているものの、日本ほど抵抗が強い国はあまりないという印象がある。「このままでは日本が取り残されてしまう」という議論も飽きが来るほどなされているが、一向にそれへの処方箋が不在のまま1年がたってしまった。

構造の変化が起きない

 ちょうど1年前に「Web 2.0という時代の先にあるもの」というエントリをした。そこでは、2006年IT業界の話題の言葉No.1になった「Web 2.0」が、バズワードではあるがインターネット、あるいはウェブというテクノロジーのある成熟レベルへの到達を示し、その黎明期(1994年)における期待を可能にする基準に達したとした。

 その時、本来期待されていたものとは異なる性格が現れてきたことをも含めたウェブの現実を受け入れるためのキーワードとしてWeb 2.0という言葉は巧妙に機能した、と書いた。そして、その延長に何があるかという議論では、身体性への回帰や現実との接点への注目、そしてこれまでとは異なるルールを社会が受容すること=構造の変化の必要性、そしてそのことをいち早く実現することでほかの国々に対する競合優位を確立する可能性があることを述べた。

 翻って2007年を見ると、現象としては予想した通りのことが観察されたものの、肝心なことが実現していない、むしろ後退しているという現実がある。Second Lifeというこれまでとは異なる世界や身体性への注目、ニコニコ動画に代表されるような新たなコミュニケーションが現れた点で、予想したとおりとなった。しかし、「あちら側」と「こちら側」を個人の体験というレベルではなく社会として受け入れ、それをより発展させることで、この国の閉塞的な状況を打破するという部分は少なく、これまでの現実の問題点が浮かび上がるだけだった。

 これを、ある人はウェブをイノベーションとして社会が受け入れる過程=消化局面にあるからだという。「消化局面」とはAlex Iskoldが作った用語で、彼はこれを「これまでのことを省み、統合し、最近の技術を理解してそれを組み合わせる期間」だと定義している(参考:「ウェブの「イノベーション」をもう一度考えてみようじゃないか」と「ウェブビジネスの消化局面:これまでとこれからを周期説でとらえる」)。しかし、 この状況は消化局面とは異なるのではないか。少なくとも、この日本では構造があまりに強固で変化が容易ではないのだ。

利己的なウェブ

 通常のイノベーションの消化局面ではないという理由の1つとして、ウェブがこれまでのイノベーションとは異なるという仮説があるだろう。

 僕たちの外側に存在する「対象」としてのテクノロジーやインフラとは異なり、ウェブは発明者でありかつ利用者である人間の行動や生活を取り込むことで発展していく一種の「システム」として位置づけることができる。例えば、Googleはクリックという個人の行為をベースに、それらを集合的に処理することで新たな検索結果を生み出し、ウェブ自体の内部構造を常に更新している。僕らはウェブというシステムと一体化しているのだ。それが発露した様子を示したのが「Web 2.0」という言葉であり、対象でしかなかったこれまでのテクノロジーと一線を画していることを共通の了解とした。だが、現実はそれにとどまらないかもしれない。

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