この過剰な慣性の強さは、以前から日本という国(あるいは文化)の特徴といわれてきた。一方では、この慣性が崩れるときは一瞬にしてすべてが変化するのだ、とも数多くの指摘がなされている。そんな破壊的な変化への対応力は他国の比ではない、という認識があるがゆえにこの過剰な慣性が生じている、というパラドキシカルな指摘すらある。
これまでであれば、この国というコップの中での嵐であり、それを耐え、あらたな状況に対応するための猶予もある程度許されてきた。しかし現在では、グローバル、あるいはリアルタイムコミュニケーションという現実がそんな前提を突き崩してしまってはいないか。
そんな中で、今年の新語・流行語大賞の1つに「KY(空気が読めない)」が選ばれたが、そんな言葉は正直言って僕にとっては寝耳に水なコトバだった(ほかにもリストに挙がった言葉の多くがやはり「?」だったので、僕が時代に取り残されているだけなのかもしれないが)。しかし、この言葉が日本の過剰な慣性の構成要素を示していることは明らかであろう。周囲の様子を見て、その状況を感受することに価値を置くがために、本質的な変化へ対応できなくなる、国民総がんじがらめ状態を甘受するためにはぴったりな言葉だからだ。
昨年のWeb 2.0からどんどん話がドリフトした。世界で最も国民一人ひとりは金持ちだが、今後緩やかな衰退が確実になりつつあるこの国を憂いているのは、明らかにWeb 2.0の状況に個人レベルでは対応できているにもかかわらず、社会全体では依然として不協和の状況が続いているこの国の矛盾がきっかけだ。
世界でもっとも消費者の品質センスが高く、多くのブランドカンパニーがフラッグシップショップを持ち、テストマーケティングをする国、日本。しかし、この国には、いくばくかの報道があろうと、依然として垂直統合を崩すiPhoneのような商品は上陸しない。
制度などが旧態然であるがゆえに、個人が経験できるイノベーションにも自ずと限界が来る。そして、世界で最も裕福な国民であっても、世界のほかの国では常識となっているサービスを享受できない、あるいは極めて限定された利用であったり、享受するためにはとてつもなく面倒で高価な手続きを経る必要が生じたりする国になってしまう可能性がある。
単に憂うだけでは意味はない。そして「空気を読んだ」と称して問題を見て見ぬふりをするのではなく、今僕らが手にしているウェブというツールを用いて積極的な情報発信をしてはどうだろうか。納得がいかないことには、素朴に「なぜ?」と問いかけるだけでもいい。そんな1人1人の思いが集い、そして大きな束になって、やがては社会の常識を、そして体制を変化させるきっかけになればと思う。来年こそは、そんな変化が訪れる年になってくれることを祈りたい。
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