そもそも写真で何を写すか。
私の場合、一言で表現すれば「目」を写すのだ。
被写体が人であれば、「目」がある。基本的には相手の「目」を写すのだ。相手が斜めとか横を向いていれば、自分から見て手前の「目」。その「目」にピントを合わせて写すのだ。それは人以外でも同じ。花でも、料理でも、風景でも、その他どんなモノでも、すべてその被写体の「目」をみつけ、それを写すのである。
あぁこの景色きれいだなぁ、という気持ちで漫然とカメラを向けてシャッターを切ると、散漫な絵になりやすい。何を撮りたいのか伝わりにくいのだ。きれいだと感じたら、そのきれいの核は何なのか、どの部分が輝きの頂点なのかを見極めて、その「目」にピントを合わせ、撮影するのである。
写真を「枠」から内向きに捉えるのではなく、絵の中心となる「目」から外向きに広がりを捉える。人の魅力が目の表情に現れるように、どんな被写体にも「目」があって、その目が魅力を放っている。そう考えて、被写体の中に「目」を見つけ、そこにピントを合わせて写すのだ。
それは同時に、自分が見ているところを写していることでもある。相手の目を見て話す、目と目を合わせる、というように、コミュニケイションにおいて重要なのはアイコンタクト。連載第2回に「写真は「写信」である」と述べたように、写真には相手との信頼関係が写るから、相手の目を自分の目でしっかりみて対話することが大切なのである。
したがって、「目」を写すとは、相手の「目」を写すことであると同時に、自分の「目」を写すことでもある。自分が見ているところを「私はこのときここを見ていた」、「ここに感じていた」と表現するのが写真なのだ。それが自分の心を写す「写心」なのである。
それができると、写真が「表現」になる。被写体を「撮る」(=取る、捕る、穫る、盗る)のではなくて、自分の心を「写す」(=映す、移す)のだ。英語でも「take a photo」と言うが、「give and take」は「give」が先。写真で表現し、写真で「give」するために、自分の心を写し出すのだ。「きれいだよ」「ステキだね」「魅力的だよ」「美しい」「大好きだよ」「すばらしい」という自分の気持ちを「give」する表現手段、それが写真、すなわち「写心」なのである。
著作権法において「著作物」とは「思想又は感情を創作的に表現したもの(以下略)」と定義されている。目の前にあるものを撮るだけで、なぜ写真が著作物になりうるのか。その答えがここにある。漫然と周囲を撮るのではなく、撮影者の心を写し出す写真、それが思想又は感情を表現した著作物としての写真なのである。まさに「心を込める」のだ。
さて、相手の「目」を見いだしてそこにピントを合わせる訓練をするには、フォーカスは「マルチAF」よりも「スポットAF」あるいはマクロモードの方がいい。実際私も、空の露出を勘案しなくていいシチュエイション、つまり空が絵の中に含まれない被写体を写す場合には、スポットAFやマクロモードに切り替えることが多い。厳密に「目」にピントを合わせたいからだ。
しかし、空が含まれる絵を写したい場合にスポットAFでカメラを下に向けて半押しすると、露出も明るくなり、半押し後にカメラを上に向けると空が白く飛んでしまう。その場合は露出補正を併用することが必要になる。でもズームボタンを何度も押して露出補正値を変更するのは操作が煩雑だし、撮影後に露出補正を元に戻す手間もかかる。戻すのを忘れて、変な露出補正のまま次の一枚を撮影してしまうことにもなりかねない。
その点、マルチAFにしておいて、空も含まれる方向にカメラを向ければ簡単。単に半押しするだけで、露出は青空に適正だし、ピントは手前の意図した「目」に合って一挙両得。スムーズに撮影を進められるのだ。
結局のところ、空の青さだけ確認して写せば、あとは自動でOK。それがGRのすごさなのである。 「何を写すか」が明らかになったので、つぎは「どう写すか」に話を移そう。以下、「撮る」という単語も使うが、言い習わされているから使うのであって、気持ちは「写す」である。
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