最終更新時刻:2010年12月18日(土) 8時00分

ディー・エヌ・エーはなぜ勝ち続けるのか――知られざる“テクノロジー”企業の姿(後編)

ディー・エヌ・エーはなぜ勝ち続けるのか――知られざる“テクノロジー”企業の姿(後編)

CNET Japan Ad Special、文・青山祐輔 写真・津島隆雄

モバゲーのオープン化を実現したのは入社1カ月目の技術者という事実

 モバゲータウンというソーシャルネットワークのプラットフォームをオープン化するというのは、前編でも取締役の守安氏が述べているが、ソーシャルゲームを自社で開発すると同時に、他社でも同様にソーシャルゲームを開発してもらうためにも、つまりは事業を伸ばすためにも必要な戦略だった。

木村秀夫氏 ポータル事業本部システム部の木村秀夫氏。

 それを成し遂げたエンジニアの木村秀夫氏はディー・エヌ・エーに入社してわずか1カ月で、この社運をかけたプロジェクトに取り組むことになった。それもたったひとりでだ。

 「以前はISPでデータベースのエンジニアをしたり、独立して受託開発などをしていました。ですが、コンシューマ向けかつケータイ向けのサービスをやってみたくなって2009年7月にディー・エヌ・エーに入社しました」(木村氏)

 入社のきっかけはプログラミング言語「Perl」のコミュニティだった。Perlにどっぷりとはまった木村氏は、以前からPerlコミュニティでも積極的に活動していた。そこで知り合ったZIGOROuこと山口徹氏に誘われたのが入社のきっかけだった。山口氏は国内でも屈指の技術者集団で知られるサイボウズ・ラボからディー・エヌ・エーに転職してきていた生粋のエンジニアだ。

 「Perlを使って大規模な開発がしたかったんです。そうなると就職先が絞られてくる。それに信頼できるPerlのエンジニアと一緒に仕事がしたかったんです。ディー・エヌ・エーの技術力がすごいことは知っていましたし、そこでならもっと自分の技術が向上できると思いました。入ってみて感じたのは、技術やインフラに加えてサービスのことをきちんと考えているエンジニアがゴロゴロいるということでした。」(木村氏)

 そして入社して1カ月後にオープン化を担当することになった。

 「いきなり『こんな話があるんだけどやらない』と言われました。ムチャ振りに『えっ』と思いましたよ。しかも半年と言われた(笑)」(木村氏)

 まずはひとりで調査を始めた。オープン化にあたり、オープンソーシャルを採用するか独自APIとするか、そもそもモバゲータウンをオープン化すべきかどうかというところから検討を開始した。

 「最終的に少しでも(外部にいるソーシャルゲームの)開発者に多く参入してもらうため、すでに広く使われているオープンソーシャルを採用しました。はじめは守安から『オープンソーシャルのメリットが本当にあるのか?』と詰められましたが、きちんと説明したら納得してもらえました。」(木村氏)

 だが、実際に開発となると一人ではとても不可能だ。そこで木村氏はモバゲータウンの内部システム、ネットワークインフラなど必要なエンジニアを“名指し”してプロジェクトに「欲しい」と守安氏に直訴した。

 「それぞれ優秀な人たちでしたから他の部署からは文句も出ました。でも短期間でオープン化を成功させるためには、どの人も欠かせませんでした。」(木村氏)

 最終的には4人のメンバーがオープン化チームに参加した。その中には木村氏をディー・エヌ・エーに誘った山口氏もいた。2009年11月にはベータリリースにこぎ着けた。先行するミクシィが開発に時間がかかっていたことを考えると驚異的な開発スピードだった。そして2010年1月の正式リリース時には、ほぼノートラブルでスタートすることができた。木村氏も「完成度は一応100%」と胸を張る。

 「ただ、個人的にはアーキテクチャーをすべて刷新したいです。現状では開発者にまだ不便を掛けてしまうところもあるので。そういう意味では、プロジェクトの道のりはまだ長いです。」(木村氏)

 社歴の浅い木村氏から見てもディー・エヌ・エーは「エンジニア目線でものごとがすすめられる会社」だという。ただし、木村氏の言うエンジニアとは「技術とビジネスの両方を考えられる人材」のことだ。つまり、サービスマインドを持つことを指す。実際、木村氏もコードを書くスキルの向上を仕事の目標としつつ、サービス自体の向上も忘れることはない。

提供:株式会社ディー・エヌ・エー
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