何年か前から、筆者はどこかさまよっているような感覚を抱いていた。ポッドキャストやテレビCMに出演し、筆者の最新情報をどこで得られるか尋ねられた際には、米CNETのサイトをチェックするよう勧める以外、分からないと答えていた。公園のベンチに座っているから探して、と冗談めかして濁したこともある。ソーシャルメディアは数年前、Elon Musk氏が「Twitter」を買収した頃に乱立し、元の状態に戻ることはなかった。「Threads」をはじめ、Twitterと同様のSNSはいくつも登場したが、その1つである「Bluesky」が2023年に参入したことで、SNS市場はかつてないほど混沌としている。
といっても、ソーシャルネットワークの経済学とか、Musk氏がしてきた、あらゆる厄介ごとの政治的動向などを語るつもりはない。ここでお伝えしたいのは、孤立を感じるということだ。新型コロナウイルス感染症のパンデミックが発生したとき、筆者はいろいろなリモート技術を寄せ集めて頼りながら、人とつながることの意味を再発見せざるを得なかった。完璧な解決策はなかったが、Twitterなどのアプリが、ほころんだ世界をつなぐ糸のようなものになった。近所の人と直接顔を合わせようか、個人用の「Discord」チャンネルを作ろうか。旧友にメッセージを送ろうか、家族に憩いを求めようか。それとも、世界とはもともと断片化したものだと認めればいいのか。
筆者は2024年の10月半ばに改めてBlueskyを使い始めた。11月に入って爆発的にユーザーが流入する数週間前のことだ。アカウント自体は、Blueskyがスタートした2023年に作成している。MetaのThreadsが登場したのと同じ頃で、「Mastodon」のアカウントも作ってはみた。同様のサービスはいくつも出現したが、満足できるものはなかった。どこも空っぽに感じられたのだ。筆者もあちこちでメッセージを送ってみたが、やがて足が遠のいた。
Twitterに代わるMetaのサービスThreadsも使ってみた。悪くはないが、それ以上ではなかった。Threadsは2023年に話題になったが、アルゴリズムで収集された、おすすめのフィードがメインで表示される点が、筆者としては耐えられなかった。それは、Threadsだけでなく、Twitterから名前を変えた「X」も同様だ。自分の友人や、その人の見識を理由にフォローし支持したいと思った、面白そうな人たちの投稿ではなく、拡散目的の無益な投稿がランダムに表示される。その空疎さは「Instagram」のコンテンツと同じで、だからInstagramアプリも離れてしまった。
Blueskyに戻ってみたのは、言ってみれば助けを求める意味もあった。フォロワーは200人かそこらしかいなかったが、その一部はよく知っている人たちだった。簡単なメッセージをいくつか投稿したところ、友人たちから返信があった。ほんの数件だ。それでも、ここ数カ月でとてもうれしく感じた出来事だった。そこで、はたと考え込んでしまった。自分が本当に必要としていたものは何だったのか。
2024年6月頃、筆者は自分で書いた朗読劇を監督した。それほど長くない作品だ。確か、見にきてくれたお客さんは35人だったが、自分で成し遂げたこととしては、しばらくぶりに最高の体験だった。郊外に住む子持ちの中年男である筆者が必要としていたのは、地元の俳優や、見にきてくれた友人など、真の人と人とのつながりだったのだ。小さなメッセージをボトルに入れてソーシャルメディアという大海に放つ代わりに、片手で足りる人たちから、ささやかでも意味のある見返りを得られた。
Blueskyは、人と直接会うのとは違う。ソーシャルネットワークという意味では何も変わらない。もともとはTwitter内部のプロジェクトで、サービスには善意が感じられる。求めているものとは離れたアルゴリズムや邪魔な広告も全く存在しない。これが永遠に続くことを願っているが、テクノロジーの世界で永遠という概念を定義するのは難しい。
Blueskyは、最近になって急に注目が集まったため、新しいユーザーでいっぱいになり、フォロワーも増えている。俳優のMark Hamill氏も始めたし、小説家のStephen King氏も、俳優のGeorge Takei氏もいる。作家のJoyce Carol Oates氏(筆者が教わった教授で、最近フォローバックしてくれた)をはじめ、以前Twitterで見かけた人も大勢いる。驚いたことに、筆者のフォロワーも、Threadsのときよりも早いペースで増えつつある。X上のフォロワーと比べればまだ10分の1だが、たとえ今の半分でもうれしい。
フォロワー数がこれほど増えたのは、なぜなのだろう。確かに、「スターターパック」というものを使った。フォロワーのリストを作成して、他のユーザーと簡単に共有できる、Blueskyの仕組みだ。ありがたいことに、VR(仮想現実)/AR(拡張現実)や没入型シアターに関するコミュニティーのいくつかが筆者を追加してくれたし、ほかにも追加してくれた人がたくさんいた。そういうところから、多くの人がユーザーの発見に専念するようになった。流行だけで中身のない投稿とは違うところだ。少なくとも、筆者はそう思う。
フォロワー数が増えていくのを見るのはクセになる。多分、クセになりすぎている。Blueskyからの通知はほぼ常に表示されているし、それ以外にも何かないか、誰がレスを付けたか、誰が自分をフォローしているか、ほかに誰をフォローできるかと、Blueskyの画面を頻繁に見ている。古き良きTwitterの時代を思い出す。しかし、ここで冷静になって自分に言い聞かせる。Blueskyを再開してから初期の一番楽しかった10月のことを思い出そう。あの頃楽しく思っていたのは、少数のユーザーを見つけて承認し、隔たりがあってもうなずき合い、励まされる感覚だった。筆者は、少数のシンプルなつながりが好きだ。バズりたいとは思わないし、数字やフォロワー数にとらわれたくはない。自分が素になれて、人が自分を見つけてくれて、自分も人を見つけられる、そういう場所がいくつか欲しいだけなのだ。
メタバース(覚えているだろうか?)は、ソーシャルメディアが、私たちの知っている今の姿から将来的にどうなっていくのかを概念として徹底的に突き詰めたものだった。ゲーム、VRヘッドセット、AR、人工知能(AI)、仮想の集会所、デジタルツインなどが使われ、筆者はその概念を時折快適だと思っている。ベストな状態のVRソーシャルアプリは、親しい者同士が小規模につながる場であって、Twitterや「Facebook」などスマートフォン上の他のプラットフォームほど広がったり、混み合ったりしないからだ。本当は、テクノロジーがあってもなくても、新しい小さな場は、いつでもどこにでも自分たちで作り出せる。Blueskyに戻ってみて数カ月で筆者が分かってきたのは、小規模に保つことが筆者にとっては望ましいということで、他の誰にとっても、その方がいいのかもしれない。
筆者は最近、数十年前に書かれたDavid Bohm氏の「ダイアローグ」という本も読んでいる。思い込みや憎しみを超越できるコミュニティーや対話を生み出すこと、そもそもコミュニティーをいかにして作り上げるのかについて書かれた著作である。小さく始めることがコツのようだ。筆者はそのことを、毎日心に刻むようにしている。
Blueskyは大きくなりつつある。そして、ソーシャルメディアはこれまでになく断片化したままだと感じる。筆者がそれを気にしているかというと、そうでもない。たとえ世界が大きくなったとしても、自分自身については小さいと考えたい。少数の善良な人に囲まれている方が、悪意のあるたくさんの人がいるよりも望ましい。散り散りになった世界とどうつながるか、コミュニティーの感覚をいかにして再建するかを考えようとしている今の時点では、小さいことこそ素晴らしいと感じる。皆さんもBluesky、あるいはどこか別の居場所を見つけて、そこが自分の望む世界となることを願っている。
Bluesky
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この記事は海外Ziff Davis発の記事を朝日インタラクティブが日本向けに編集したものです。
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