数千人、数万人の社員を抱える大企業の中で、新しいことにチャレンジすべく、部署の垣根を超えてイノベーションを推進する「社内イノベーター」たち。そんな彼らの中でも、唯一無二とも言えるキャリアを持つのが、西日本電信電話(NTT西日本)のビジネスデザイン部 X-CREATE室 プロデューサーである及部一堯氏(35歳)だ。
同氏はNTT西日本において、現場社員が新規事業創出に挑戦するための仕組み「HEROES PROJECT」を社内の同志と立ち上げ、NTT西日本活性化有志団体である「NTT-WEST Youth」の代表も務める。さらに、関西の大企業を横串でつなぐ組織である「ICOLA」の共同代表でもある。このほか、副業で複数社の顧問やアドバイザーに就任している。
これだけの経歴を持ち、いまでは率先して社内活性化や社員のモチベーションアップに向けた取り組みをしている及部氏だが、かつては退職未遂を3回もするほどの問題社員だったと、自身の過去について笑いながら語る。
そんな及部氏の原動力になっているのが、マジシャンやパフォーマー、レクリエーション介護士など、豊富すぎるプライベートでの活動や経験である。いかにして同氏は大企業で社内イノベーターへと成長していったのか。これまでの半生を振り返ってもらった。
ーーまず、及部さんのこれまでのキャリアについて教えてください。
2007年にNTT西日本に入社して、法人向けの営業を担当した後、2009年に岐阜へ異動となり、家電量販店スタッフのマネジメントや、企画などを経験しました。2012年にビジネスデザイン部に移り、新規事業創出に携わることになります。そこで介護レクリエーションサービスを自ら企画し、立ち上げました。
また、2015年から2年間は大手飲料メーカーに出向しました。最初は和歌山県のスーパーマーケット営業のリーダーとして、各スーパーの自社製品のシェアを広げるための戦略立案、店舗交渉などの現場業務を経験し、2016年からは近畿全体のオウンドメティアを活用したデジタルマーケティング業務を行い、飲食店の盛業支援チームでも活動しました。
2017年にNTT西日本ビジネスデザイン部に戻り、現チーフプロデューサーの尾﨑啓志とともにHEROES PROJECTをスタートさせると同時に、飲食業界向けの集客支援サービスをリリース。現在も飲食業界向けの新規事業を創出しています。
ーー通信事業者としての業務に携わりつつも、飲料やスーパーマーケットのマーケティングなど、幅広い仕事を経験されたのですね。では続いて、プライベートでの活動についても教えていただけますか。
プライベートでは、2009年からシンガーソングライター活動を始め、その後、マジック、ジャグリング、パフォーマンスなど学び、総合エンターテイナーとして介護施設、養護施設、保育施設、地域のイベントなどで200回以上公演してきました。その結果、レクリエーション介護士という資格の第一号を取得させていただきました。
また下手な人でも誰でもステージに立てる音楽イベントやさまざまな分野の人とつながれる交流会イベントの主催、自身でもお琴や三味線などを学び、日本伝統芸能関係の取り組み、NPOやNGOでの国際支援活動やゴミ拾い活動、農業を通じた子どもたちの育成活動にも携わらせていただきました。その結果、日本ミャンマー伝統文化交流会や日本カンボジア芸術文化祭での出演、全日本きもの装いコンテスト世界大会にも出場しています。
そして、今では関西大企業有志団体ネットワークICOLAやNTT西日本を活性化させるための有志団体NTT-WEST Youthなどの代表をしながら、WEB制作のベンチャーや介護施設などの顧問やアドバイザーに取り組んでいます。もちろん総合エンターテインメント活動やレクリエーション介護士の活動も継続しています。
ーーまさにパラレルキャリアですね!パラレルキャリアとしてはシンガーソングライターからスタートしていますが、始めようと思ったきっかけを教えて下さい。
きっかけは入社1年目の出来事です。当時は、実業団の選手としてバスケットボールに明け暮れていました。ところが、その年の12月の練習中、足の骨を切断して、入院生活になってしまったんです。そうすると、時間がたくさんあるので、ベッドの上でいろいろと考えるようになりました。
当時はバスケットボール中心の生活だったので、あまり社内の懇親会などにも参加していなかったのですが、それでも先輩や同期や友人たちが毎日お見舞いにきてくれました。また、僕が病室で見ている全ての物は、誰かが作ってくれたからこそ目の前にあり、自分が作ったものは何一つないことに気付きました。
そのとき「自分は世界中の人々に支えられて生きている」と強く感じました。そこで、足が治ったら行動で感謝を示そうと考えた結果、シンガーソングライターとして感謝を伝え、元気を与えることができる人間になることに決めました。
ーーバスケットボール選手からシンガーソングライターですか。振り幅がすごいですね。
足が治ってから何をすべきか探すために、会社を休んで欧州へ旅に出たり、仕事以外にもいろいろと挑戦してみたのですが、どれもしっくりきませんでした。そんなときに、ゆずのライブ行ったら「これだ」と。
それでシンガーソングライターを目指したのですが、実際にステージに立つとやっぱり下手なので、なかなか演奏する機会がないんですね。そこで、下手な人でもライブに出られる環境を作りたいと考えて、音楽を始めたばかりの人が出演できるライブを企画して、イベントの企画者 兼 出演者になりました。最初は良かったのですが、やはり下手な人の歌を聞きたい人はそこまでいないので、だんだんとお客さんが集まらなくなり、2年ほどでこの活動は幕を閉じました。
ーーシンガーソングライターで演奏する側ではなく、企画する側もやられていたのですね。その後、総合エンターテイナーにも取り組まれていますが、なぜこの活動を始めたのでしょうか。
はい。シンガーソングライターとして活動している中、転機が訪れました。ある時、介護施設に招かれて演奏する機会があったのですが、高齢者の方々に全然ウケませんでした。その理由は、耳の遠い方が多く、また僕もその世代に馴染みのある楽曲を演奏したわけではなかったからです。そのときに「自分は楽しんでいただく手段に固執していた」ことにようやく気付くのです。
それから考え方が変わり、「目でも耳でも楽しんでいただける人間になろう!」と思い直し、紙芝居を自分で作ったり、マジックを独学で学んだりするようになりました。その後、チームパフォーマンスラボに出会い、ジャグリングを学び、目でも楽しんでいただけるコンテンツを増やしていきました。すると少しずつファンもついてきて、一時期はアメーバブログのサラリーマン部門で15位までランクインするようになりました。
初めての介護施設での演奏が終わった後、本当に悔しい気持ちになり、リベンジしたくても当時住んでいた地域の介護施設のつながりがなかったので、タウンページを見て「あいうえお順」に介護施設へ電話し、ボランティアをさせてくださいと言っていました(笑)。初めて活動した施設で諦めず、たくさんの施設やイベントに出演し続けたことが、その後の未来に大きな影響を与えることになります。
ーー仕事と両立して、社外活動もかなり精力的にこなしていたのですね。
そうですね。そして、その後に総合エンターテイナーから日本伝統芸能、国際支援などの活動を経てビジネスの世界に入ります。2011年に発生した東日本大震災の支援のため、岐阜のショッピングモールなどでチャリティパフォーマンスイベントなどを開催していました。すると、あるご縁をいただき、日本伝統芸能の先生方と一緒にチャリティイベントを開くことになったんです。そこから、日本伝統芸能の素晴らしさを教えていただき、日本ミャンマー伝統文化交流会への出演につながります。
そこで、ミャンマーへ行く前に、先生から日本伝統芸能だけではなく、立ち方、歩き方、座り方、ご飯の食べ方など日本人として必要な立ち居振る舞いを教えていただきました。そして、交流会中に「日本の伝統文化はグローバル時代を生きていく上で重要になる」と感じ、帰国後、先生に弟子入り志願をしました。
ーー日本の伝統文化から多くのことを学んだのですね。弟子入り志願した後はどうされたのでしょう。
日本伝統文化を学びながら、先生が参画しているNPOで国際支援活動させていただくことになりました。この国際支援活動がビジネスの世界への入り口でした。2011年秋、カンボジアで大洪水が発生し、甚大な被害を受けました。そこで、NPOでカンボジアの洪水支援のために寄付金や支援物資を集め、それを現地に届けるという活動を行いました。
その際、カンボジアの子どもたちにお菓子の配布や簡単なマジックをしましたが、その場ではたくさんの笑顔を見て、良いことをしたんだなと思っていました。そのことを経営者に伝えると、「及部くんのやっていることは点だよね」と言われました。この言葉に衝撃を受けました。自分の活動はすべてその場を楽しませようとしていることだけで、継続的に楽しませているわけではなかったからです。
そこで、自分が目指す人を「世界中の人に元気と夢を与えられる人」から「世界中の人に元気と夢を“与え続けられる”人」に改め再出発をします。最初に行ったのが、カンボジアの現地NGOでのインターンシップです。当時は電気、ガス、水道のない村に行ってホームステイをし、その村をどうやったら活性化できるかという取り組みをさせていただきました。
もちろんまだまだビジネスの発想も乏しく、街や村の活性化なんてどうすればいいかわからなかったため、自分が考えたアイデアをNGOの代表にお伝えしたときは、自分の未熟さを感じ、悔しい気持ちでいっぱいでした。
ーーNTT西日本で会社員として働きながら、プライベートではミャンマーやカンボジアにも行っていたのですね。海外インターンシップでカンボジアに行くといった時、会社はどのような反応だったのでしょうか。
「退職してカンボジアで事業をするから視察に行きます」と言って、やめる気満々で休みを取った時には、上司は当然渋い顔をしていましたが、実はカンボジアにいる間に昇格していたんです(笑)。当時は会社にいる意味が見出だせず、社会貢献をしていきたいので辞めようと思っていたのですが、帰国後に新規事業の部署に配属されて、そこで衝撃を受けました。
会社で新たに作ったサービスが世の中に出ていくのを見て、「継続して支援していくというのはこういうことなのか」と感じだからです。そして、ビジネスに一気に興味を持ちました。実際にやってみると事業を作るのも広げていくのも凄く大変で、その重要性や難しさ、楽しさを教えていただいて、「ビジネスを通して社会に貢献することはたくさんある。この会社で継続して働いていきたい!学びたい!」という気持ちになりました。
ーー新規事業の部署では、どのようなことにチャレンジしたのですか?
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