2012年に、ソニーとJ.K. Rowling氏が「ハリー・ポッター」を元にした魅力的なARゲームブックを作ったことや、初期のスマートフォンベースのARを使用した「レーザータグ」(訳注:Hasbroが1984年発売した、光線銃を使用してサバイバルゲームができるトイ)の新作が出たことを覚えている人はあまりいないだろう。筆者でさえ、かろうじて覚えている程度だ。
また、この年の後半にスタートしたKickstarterプロジェクトである「Oculus Rift」は、筆者が90年代に夢見た、リアルで素晴らしいVRを提供すると約束していた。筆者が初めてOculus Riftを試すことができたのは、2013年1月のCESで行われたデモの場だ。そのデモでは、バーチャルな中世ヨーロッパの街中を動き回れただけだったが、その体験は筆者の脳に焼き付いた。今回ばかりは本当に、VRが最高にエキサイティングな技術の1つになるだろうと思えたのだ。
一方で、その数カ月前には、サンフランシスコで開催されたGoogleの開発者向け年次カンファレンス「Google I/O」で、奇抜なウェアラブルカメラを頭に着けた人物が、空中の飛行機からパラシュートで会場に降下していた。これが、後にテクノロジーの「行き過ぎ」を象徴するデバイスになったARヘッドセット「Google Glass」だった。
筆者は2013年に、Googleのニューヨーク本社でGoogle Glassを試した。そのときに受けたGoogleのPRチームによるチュートリアルで、音声とフレームのタッチバーを使ったヘッドセットの操作方法を学んだことを覚えている。筆者は、それを着けて電車で通勤したこともあった。Google Glassが処方された眼鏡レンズに合わなかったため、コンタクトレンズを手に入れたものだ。また、CNBCに行って、それを着けたままテレビ番組の生放送に出演し、この「ターミネーター」的なものは何だろうと思われたこともある。
Google Glassは、未来のサイボーグが着けるスマートグラスのように見えた。細くて軽く、前方に向けてカメラが付いている。奇妙で、プライバシーを侵害されたような気分にさせるデバイスだった。
Google Glassは実験的に設計されたものだ。そして、技術に対する反発を象徴するものになった。Google Glassを着けている人を見た人はほとんどいないはずだが、サンフランシスコでは、Google Glass着用者は、テクノロジー文化の「行き過ぎ」、日常生活の侵害の兆候だと見なされ、「グラスホール」(Grasshole)と呼ばれた(訳注:GlassとAssholeを組み合わせた言葉。Assholeは「嫌なやつ」を意味する)。
Google Glassにはあまり多くの機能はなかった。写真やビデオの撮影ができたほか、簡単な情報を目の前に表示することができたが、ほぼそれだけだ。それでも、Google Glassは今も、この10年間に作られたあらゆるスマートグラス(「Vuzix」「Spectacles」「North Focals」)のプロトタイプ的存在だと言える。Google Glassとそのポップアップ通知は、同様の機能を持つさまざまなスマートウォッチよりも前に登場している。また、常にカメラで記録する文化と、常に通知を受け取り続ける生活を先取りしていた。Google Glassは今も存在している。そしてそれは、小型のヘッドセットがどこに向かっているかを示す密かな兆候だと筆者は考えている。
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