朝日インタラクティブは2017年5月末、日本マイクロソフトやグーグルで活躍した及川卓也氏をゲスト講師として招き、社内勉強会を開催した。本稿では及川氏が今だから語る当時の裏話から、スタートアップへのコミット手法まで余すことなく紹介する。聞き手はCNET Japan編集長の別井貴志。
――まず、簡単なプロフィールを教えてください。
及川です、よろしくお願いいたします。日本マイクロソフトでWindows OSを、グーグルでウェブ検索や(ウェブブラウザの)Google Chromeなどを担当してきましたが、社会人としては1988年から日本DEC(ディジタルイクイップメント)へ入社しました。ソフトウェア技術者としてキャリアをスタートさせています。
――開発者がスタートではない?
コンピュータサイエンスに携わる30代の方でもご存じないDECですが、コンピュータの歴史をさかのぼると、UNIXやC言語、イーサネット、X Windowなど重要な製品をDEC単体、もしくは他社や大学と共同プロジェクトで世に輩出してきました。自分が社会人になった頃は第2次AI(人工知能)ブームの時代。DECもAIに注力するため、「AI技術センター」を開設し、「ナレッジエンジニア」を認定して育成していました。
自分もAI技術に深い興味を持っていたので、AI技術センターへの配属に憧れましたが、学生の頃からコーディングが好きだったので、最初はエンジニアを希望しました。しかし、ソフトウェア部署に配属された新卒約100人弱の中から自分を含めた2人が営業サポートへ配属されることに。営業担当に同行して客先で製品を売るという仕事でした。
――では、営業経験もお持ちなんですね。
そうですね。イベントで技術者キャリア話をする際は、営業話を取り上げます。最近は技術者にも営業経験を積ませる企業も少なくありませんが、多くの技術者は嫌う傾向にあります。同感できますので無理強いはしないという前提はありつつも、(自分の経験からすれば)違う職種を経験したことは強みになりました。若い方に伝えたいのは、「来た仕事をえり好みしない」ということ。合わないこと自体も貴重な経験につながり、経験は長いキャリアに活かされます。
――文系を目指していたのは本当ですか?
実はジャーナリスト志望だったんです(笑)。文章を読むのも書くのも好きだったことと、小中学校時代は新聞係だったこともあり、自然にジャーナリストを目指しました。中高生時代は毎年古墳の発掘現場に行く機会があったため、早稲田大学では吉村作治教授(現早稲田大学名誉教授)の元に行きたかったので、文学部・史学化を目指した時期もあります。しかし、父親が理系の人間だったことと、中高生時代は教師に刃向かうタイプだったため、「及川くんのような方が文学部に行くと左翼学生になってしまう」と教師に言われ、理系に行かせたい父親と教師がタッグを組んで理系に行かされました(笑)。
元々は機械いじりが好きだったので、当時の先生のおかげで数学も好きでしたね。大学では物理探査のため、地熱調査をする作業がコンピュータのモデリングやシミュレーションに大きく関わり、研究室に入ってからは常にプログラムを書いていました。ここでコンピュータの面白さに目覚め、科学計算に強い企業ということで日本ヒューレット・パッカード(当時の横河ヒューレット・パッカード)と日本DECの2社から後者を選びました。
しかし、学生の浅はかなところでコンピュータ企業に入っても、科学計算をするのはコンピュータを購入したお客さんであって、社員ではないと(笑)。私が売っていた製品は今で言うグループウェアでした。入社当時はオフィスにIBMやDECの端末が並んでいる状態で、やっと社内メールや文章作成にコンピュータを使い始めた頃です。当時はOAなんて言葉もありました。オフコンって言ってましたね。
――日本マイクロソフトに転職されたきっかけはWindowsですか?
当時「DEC VAX」という名機がありましたが、そこにVTと呼ばれるディスプレイとキーボードがセットになった専用ターミナル経由で、日本語化した自社独自アプリケーションで文章を作成していました。
当時はオフィスにPCが1台、2台と少しずつ導入され始めた頃です。確かNEC PC-9800シリーズでしたが、文章作成にジャストシステムの「一太郎」、表計算は現在IBMの一部となった「ロータス1-2-3」を使っていました。当時は営業サポートを担当していましたが、PC用アプリケーションをDECのコンピュータと連携させる顧客用デモンストレーションを作りました。
日本DECは自由な会社で、Googleの20%プロジェクトに相当する仕組みとして「ミッドナイトプロジェクト」というものがありました。就業時間後であれば何をやっても構わないと。その間に作ったデモンストレーションが評判になり、営業サイドからパッケージ化のリクエストが上がるようになりました。そこで日本独自の製品開発部署に移りました。
当時のPCは現在と違って、"似て非なるPC"が各ベンダーから山のように出ていました。たとえばIBMの「PS/55」(筆者注:米IBMのPS/2をベースに日本語表示機能を搭載したPC)や、Appleの「Macintosh SE」など。5分に1回は[Ctrl]+[S]キーをおしてファイルを保存する必要がありました(笑)。
――フロッピーディスク(FD)全盛の時代ですね。
そうです。レコード盤ぐらいの大きさを持つ8インチFDから5インチFDに置き換わり、当時はどちらも紙に入っていました(筆者注:FDは円盤状の磁気体をジャケットと呼ばれる外装で包んでいたが、ドライブヘッドが当たる部分はむき出しになるため、紙製の袋に収納していた)。3.5インチになってジャケットがようやくプラスチックになりました。8インチ時代は容量も400Kバイトとメガバイトではありません。5インチの後期にようやく1.2Mバイトが出てきた程度。
日本DECはVAXが主流商品でしたが、自分はPCを使っていたので傍流だったことになります。しかし、時代が追いついてきたんですね(笑)。逆張りしたものが当たりました。
当時の日本マイクロソフトはWindows 3.0やWindows 3.1をリリースしていましたが、その頃はホビーストの会社でした。VAXなどのオフコンから見るとPCは玩具のような存在でしたが、それが変わりつつあるとIT業界内で話題になり、有名人も集まりだしました。
当時のMicrosoftがリリースした「Microsoft SQL Server」は、まだ未成熟の部分もある製品でしたが、世界中からデータベースの叡智を集めて改良されました。Microsoftの当時のプレゼンでは、データベースの有名なアーキテクトの名前を10名ほど出して、このうち7名がすでにMicrosoft社員になりましたっていう、ちょっと今ならどうだろうと思うような説明もしていました。データベースやトランザクション処理の大家であるJim Gray氏が入社したのもこの頃です(筆者注:SQL Server 1.0はOS/2版を1989年にリリースされ、及川氏が説明した件は1998年リリースのSQL Server 7.0の時代)。
時期は前後しますが、日本DECからも日本マイクロソフトに移っていきました。当時のMicrosoftはミッションクリティカルな場面でも運用できるWindows NTを開発していましたが、元DECだったDavid Cutler氏が移籍したことも相まって、「彼が行くなら」と転職する人が続出しました。
日本でも(日本DEC→日本マイクロソフトという)同様の動きがあり、自分も移ろうかと日本DECに辞表を書きました。ところが上司に渡したところ、1週間後に「日本マイクロソフトからWindows NTを作るので、Alpha版の日本語化をやらないか」というカウンターオファーが出たんです。ちなみにAlphaは64ビットのRISCプロセッサとしてDECが起死回生を狙って作ったものですが、結果として自身の首を絞めたことになります。しかし、技術的には素晴らしいものでした(筆者注:Windows NTは現在のWindows 10の源流に当たる)。
Microsoftおよび日本マイクロソフト、そして米DECの共同チームを作るからリーダーになれというオファーでした。その時「今日本マイクロソフトに行けば、2人目のSEになれる(すでに1人目のSEは入社していました)」という考えも脳裏をかすめましたが、現在のようにオープンソースOSは普及しておらず、基幹部分であるOSのソースコードに触れる人間は世界でも限られると考え、30秒で答えが出ました。その結果がMicrosoftへの1年間出向です。
――及川さんのイメージが固まる原点ですね。
CNET Japanの記事を毎朝メールでまとめ読み(無料)
ZDNET×マイクロソフトが贈る特別企画
今、必要な戦略的セキュリティとガバナンス
ものづくりの革新と社会課題の解決
ニコンが描く「人と機械が共創する社会」