1つの会社に縛られない方がいい--及川卓也氏が語る「看板を彩る生き方」 - (page 2)

 そうですね。自分の考え方として「1つの会社に縛られない方がいい」というものがあります。現在ならオープンソースの活動やコミュニティへの貢献、IT勉強会など、技術者が学ぶ・アピールする場面は多くありますが、当時はPC雑誌や書籍しかありません。

 手前味噌ですが、Windows NTに関しては日本で1番詳しいという自負がありました。さらに当時の日本マイクロソフトは主に日本語化だけを担当すれば良かったのですが、自分はAlphaへの移植というプロセッサレベルでのコードも見る必要があったりしたため、Windows NT全体(のソースコード)に目を通しました。これはチャンスだと思い、「Windows NT 3.5完全技術解説」を共著で執筆しました。

 あっという間にベストセラーとなり、同3.51、同4.0と改定本も出させていただきました。このほかにも「Windows World」(現在は休刊)で連載させてもらうなど、日本マイクロソフト入社前からWindows関連で名前を知ってもらいました。そのせいか日本マイクロソフト入社時は「及川が入ってくるらしい」とザワついたと後から聞きました(笑)。


――なぜ日本マイクロソフトに完全移籍されたんですか?

 出向を終えて日本DECに戻ると、早期退職プログラムで次々に優秀な方が退社していました。当時日本の研究開発センターに在籍していた優秀な方々も。自身のロールモデルだった方が辞めていく姿を見て、モチベーションがなくなってしまったんです。あの頃は日本DECの仕事よりも、執筆活動やユーザー会の活動の方が面白く、矛盾を感じるようになりました。

 当時のMicrosoftはインターネットにやや音痴なところがありました。たとえばメール1つとってもWindowsからメールを送ると、UNIX上のメーラーで開くと文字化けが発生します。仕様的には間違ってはいないものの、不思議な使い方で問題を引き起こしてしまう(筆者注:Microsoft Internet Mail and Newsの時代におけるエンコードやMessage-ID問題)。ユーザー会では提言書をまとめて、日本マイクロソフトに提出していましたが、中に入って直した方が早いんじゃないかと思い始め、転職を決意しました。

――日本マイクロソフトのキャリアが始まりますね。

 最初はWindows NT 4.0 Terminal Serverを担当しました。現在のWindowsが備えるリモートデスクトップ機能の元となるOSです。次にWindows 2000、Windows XP、Windows VistaのPM(プログラムマネージャー)をやりました。途中でPOSターミナルを作るベンダーと一緒にWindows XP Embeddedの普及活動などを担当したこともありましたね。Windows Vistaは日本語版と韓国語版を担当しましたが、厳しかったです。でも、(Vistaの失敗があったからこそ)Windows 7など、その後のOSが良くなりました。

 Windows XP時代は世界的にセキュリティ対策が問題化し、すべての開発を止めて、Windows XP Service Pack 2をリリースしましたが、別OSを作り上げるくらいの開発コストがかかっています。Windows XPからWindows Vistaに至るまで結局5年半の歳月が流れました。しかし、開発当時に設定した(購入ターゲット像を決める)ペルソナは意味をなさなくなり、市場とずれたOSになったのも大きな要因です。Windows Vistaのカーネルは非常に良いものでしたが、シェルまで含めると一部の機能が重く、インターネット(が主流になった時代)的には古い設計を備えるいびつな存在でした。


――その後はグーグルですが、日本マイクロソフトに飽きたというのは本当ですか?(笑)。

 (転職は)10年前ですから40代前半の頃ですね。その後のキャリアを考えると、日本マイクロソフトの開発作業が想像できてしまったんです。当時の日本マイクロソフトは日本に拠点を置くOEMやIHVなどとともにWindowsの新機能で彼らのハードウェアやデバイスが関わる部分の仕様を確認したり、提案したりし、最終的に動くものができるとそれを検証するという役割が主でした。エンタープライズユーザーに開発中の製品を試験導入してもらったり、国内の通信キャリアやプロバイダなどの環境で通信機能やウェブなどが動作するように仕様を調整することも行っていました。とても重要な仕事なのですが、次のWindowsのリリースでもやることが想像できてしまうように思い、「これを繰り返すのが自分の人生なのか?」と考えた時、違うことをやるチャンスが少ないことに気付かされました。

 2006年は「ウェブ進化論」(梅田望夫著)が出版された年ですが、日本マイクロソフト社内を見渡すと、Windows Liveブランド製品をプッシュしていました。しかし、Windows以外の製品にあまり愛を感じられなかったこともあり、社員視点でも「これはダメだろう(笑)」と。もう、その頃は“心ここに在らず”で、グーグルを調べれば調べるほど気になる存在になりました。日本法人の社員数や採用形態もミステリアスだらけ。そうなると入りたくなって仕方なく履歴書を送っていました。

――グーグルではGoogle Chromeの開発をされていた?

 前半期は各サービスのプロダクトマネージャー(PM)でした。ウェブ検索からGoogleニュースまでいろいろやりました。後半期はGoogle ChromeのPMとエンジニアリングマネージャーです。当時の日本法人には開発チームがありましたが、エンジニアリングマネージャーがいませんでした。Googleは面白い企業でPMが強い会社なんです。現在のCEOであるSundar Pichai氏もPM出身ですが、グーグル時代は近い存在として1on1ミーティングの相手でした。あっという間に偉くなったのも(Pichai氏が)人格者だったからでしょう。話は戻りますが、PMが強いのと同時にエンジニアの会社でもあるのです。語弊を恐れずに言えば、グーグルはエンジニアの会社でもあると言えるでしょう。グーグルでPMとエンジニア両者の立場を経験できたのはとても貴重でした。

――「20%ルール」では何かやられました?

 デベロッパーリレーショングループに携わっています。現在のGoogle I/Oにつながる「Google Developer Day」の運営や基調講演の段取りに携わりました。2011年の東日本大震災以降は被災地支援や、情報支援レスキュー隊の代表理事などです。

――グーグルを辞めてスタートアップへ行かれた理由は?

 日本マイクロソフトを辞める時と似ていますが、飽きてしまいました(笑)。とても不遜な言い方だと思いますが、敢えてわかりやすく言うとです。米国本社でもプロジェクトに参加するメンバーは頻繁に入れ替わり、社も「人は多様性を持った方が強く、組織自身も血の入れ替えは必要」という考えから推奨していました。優秀な開発者でも異動希望を出すと上司が止めることはできません。

 自分も社内異動を望みましたが、同時に家族の事情もあり東京から離れられませんでした。そうなるとポストがなく、空いていたのは非開発系のポジション。例えば、Googleのエンタープライズ製品の普及を担当することなども候補としては考えました。日本マイクロソフト時代と同じくWindowsでもエンタープライズ分野に通用することを証明できたことが面白かったし、日本の保守的な企業にオンプレミスからパブリッククラウドへの移行をうながすのも面白いと考えましたが、最終的には開発にこだわりたいため社外に出ることを選びました。


――その辺りから若い人を応援する感覚が生まれたのでしょうか?

 いえ、グーグル時代からです。若い人を応援するというよりも、自分も勉強されてもらっています。グーグルでは一回り以上下の若い開発者が多かったからでしょうか。たとえば、日本では新卒入社する際は同期や上下関係を重視しますが、転職するとすべてリセットされます。日本マイクロソフトやグーグルはさらにドラスティック。そうなると年齢は考えなくなり、若い人と仕事をするのが楽しくなりました。

 他方でグーグルは素晴らしい会社です。もちろん反論や異なる評価があるのは分かりますが、日本国内のスタートアップにグーグルの良さが伝わり、広まったら素敵だなと。なので日本マイクロソフトやグーグルで学んだことでお役に立ちたいと考えています。元々IT立国と呼ばれていた日本ですが、90年代後半から他国に抜かれるようになって、開発者の社会地位も高まりません。賃金格差で比較するとシリコンバレーと数倍の開きがあります。この部分も改善し、スタートアップなど若い会社を応援したいという気持ちに至りました。

――及川さんの名言「看板を背負わない生き方と看板を彩る生き方」とは?

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