筆者の両親はカメラを持っていたが、撮影しても現像しなければ見られず、さらに現像した膨大な写真をアルバムにまとめなければならなかった。大人になって自分で家賃を払いはじめるようになると、その膨大となったアルバムの山を保管しておく場所を確保することも、海外に引っ越せば輸送にも、コストがかかると気づく。
「幼稚園の運動会で転んじゃった時の写真、どこにあったっけ」
そうなると、実家を巻き込んだ騒動になる。物置も含めて、家中のアルバムをひっくり返し、1ページずつめくり、その写真を見つけ出さなければならない。そして、実際に運動会のかけっこで転んで1位を取り損ねていたことを覚えていたとしても、その瞬間が写真に収められていない可能性もある。
幼稚園の運動会、といった年代とシチュエーションが限定されている写真はまだよい。もっと大変なのは、結婚式の時だ。新郎新婦それぞれのプロフィールビデオを作成する際、必要になるのは成長の記録だ。誕生、幼年期、入学式、各学校での友達、就職、出会い……。両家の実家だけでなく、各年代の友人を巻き込むこともあるかもしれない。
今、生まれた子供はどうだろう。
誕生の瞬間、初めて母に抱えられた瞬間の写真から残っており、その子の祖父母が離れて暮らしていたとしても、1分後には孫の顔が見られる。食べた、立った、歩いた、という節目でなくても、毎日大量の写真がスマートフォンのカメラロールに保存され、随時家族や友人と共有できる。そして、カメラロールをスクロールし続ければ、いつでも生まれた瞬間の写真を見られる時代だ。
例えば、1カ月ごとに100枚以上の写真とともに、成長が記録されていくなら、10歳までで1万2000枚の写真が残る。親から子へ、膨大なデジタル写真データが受け渡されれば、30歳に結婚するならば、3万6000枚のデジタル写真でプロフィールビデオが作れるだろう。
スマートフォンの普及とカメラの定着は、われわれの現在の生活を、分散的に、ものすごい勢いでアーカイブしていく状況を作り出した。ビデオも考えると、瞬間だけでなく、ある程度の長さの時間軸での記録もある。
もちろん、同じ場所でも人が違えば異なる写真を撮っているわけで、その視点の違いが写真が持つ情報であり、その人の意思を表すものになる。それゆえに、誰もいない場所の写真や、ある事象を誰も見なかった角度から捉えた写真には、日常の記録であっても特別な価値が生まれる。
さらに重要なことは、これらの写真を見るのは自分や他人といった人間だけでなく、機械、コンピュータビジョンも参入してきている点にある。写真データからさまざまな情報や状況を抽出でき、あるいは他と比較したりして、撮影者のその時のアイデアまで見透かされる可能性すらある。
みんながカメラを持ち歩いている時代、1枚の写真の価値は失われるのではなく、新しい意味を持つものになっていくと考えるべきだろう。社会的な意味だけでなく、個人的な意味合い、つまり自分でシャッターボタンをタップしたことに、価値が生まれるのだ。
その記録の方法やフォーマット、そこから見出される意義については、また次週にお伝えしたい。
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