筆者は最近、スマートフォンとカメラの関係について、単なる1つの機能を超えたものを感じている。
スマートフォンは、身の回りのさまざまな機能や道具を取り込んでいる。カメラもその1つであり、スマホを持っている人は常に1000万画前後のカメラを持ち歩いていることになる。生活の中に完全に取り込まれたカメラは、各メーカーが最も力を入れている機能だ。しかし光学的な性能の制約から、未だにカメラデバイスを上回ることはない、面白い存在だ。
今月は、写真を切り口に、モバイル時代におけるわれわれの生活と未来について考えてみよう。
日本では「写メール」として2001年にキャンペーンがスタートし、大ブレイク。カメラが内蔵されたケータイはモバイルデバイスの「顔」として親しまれてきた。筆者は、大学生当時からドコモのケータイを使っていたため、カメラ付きケータイを手に入れるまでにJ-PHONEやauを使っていた友人に遅れをとってしまったのを覚えている。
一方で、ケータイにカメラ機能が搭載されても、デジタルカメラは手放さなかった。ケータイで撮影する写真と、デジタルカメラで撮影する写真をどこか区別していた部分があって、ケータイはよりプライベートなもの、という印象があった。ただ、最近では明確な区別がなくなってきており、とにかく手元にあるカメラ(多くの場合iPhone)で撮影するようになった。
この「みんなの手元にカメラがある状態」がいつ生まれたのかを紐解くと、日本においては、30年前、1986年7月に富士フイルムが発売したレンズ付きフィルム「写ルンです」以来ではないだろうか。筆者が初めて手にした自分のカメラは「写ルンです」だった。小学校の林間学校かなにかだったと思う。
富士フイルムは、30周年を記念して、特設サイトを開設している。写ルンですの歴史やインタビューが掲載されており、写真について今一度、振り返るきっかけとなるだろう。
筆者の子供の頃を考えると、写真はまだまだ「特別なもの」の1つだった。家族写真は、近所の写真館で撮影していたような時代だった。カメラそのものの機材も照明も、フィルムも、撮影する人の腕前も、すべてにおいてプロとの差が明確だったからだ。もちん、今でも腕前という要素は不変だ。
「写ルンです」の登場は、特別なものだった写真を、日常へと変えた。ケータイの写真やスマホの写真は、技術的にも文化的にも、その延長戦上に存在しているに過ぎないと考えている。ただし、今までは、の話だ。
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