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「ファイナルファンタジー」の生みの親、坂口博信氏が振り返った“クリエーター人生”

佐藤和也 (編集部)2016年10月11日 13時02分
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 9月29日、オルトプラスにて「エンタテインメントの未来を考える会 黒川塾(四十)」と題したトークセッションが行われた。コラムニストの黒川文雄氏が主宰、エンターテインメントの原点を見つめなおし、ポジティブに未来を考える会となっている。

 今回は「坂口博信 人生のクリエイティブ」と題し、ゲームクリエーターの坂口博信氏を招いてさまざまな話題が話された。坂口氏は、のちのスクウェアとなる電友社にアルバイトとして入社。在籍時に「ファイナルファンタジー」を手がけたことでも知られている。現在はミストウォーカーの代表としてスマートフォン向けゲーム「TERRA BATTLE」(テラバトル)などを手がけている。

坂口博信氏(左)と、黒川文雄氏(右)
坂口博信氏(左)と、黒川文雄氏(右)

“ゴブリン坂口と呼ばれた”“中山美穂さんに会えなかった”--スクウェア黎明期の思い出

 冒頭は、坂口氏が学生時代を語った。高校時代はお小遣いなど自分で使えるお金をほぼ全て漫画や映画に費やす日々を送っていたという。当時、書籍ではハヤカワ文庫のファンタジー小説をよく読んでいたとも振り返った。

 その後、横浜国立大学に進学。大学時代ではPCに興味を持ち、Apple IIのソフトが動作する互換機を自作。プログラミングを勉強する傍ら、「ウィザードリィ」や「ウルティマ」といったRPGに熱中していたと語る。さらに方眼紙を活用し、ディスクドライブのヘッダの動きを分かるようにして、プロテクトのかかったトラックを解析するといったことにも熱中していたという。

 坂口氏の同級生で、後に「ファイナルファンタジーXI」のプロデューサーなどを務めた田中弘道氏を誘い、電友社に入社。最初にゲーム開発に携わったタイトルは、テレビ番組でよく知られる「鳥人間コンテスト」をテーマにしたものだったが、制作途中に番組の版権を抑えていなかったことが発覚。開発は頓挫してしまう。

 そのため、坂口氏自ら動く形でメンバーを集めて開発をしたのが、1984年にリリースされたPCゲーム「ザ・デストラップ」。坂口氏はシナリオを担当した。当時を振り返るなかで、グラフィック面を担当する美術大学出身の新人3人を採用したが、油絵を主体としていたことに加え、まだゲームグラフィックが一般的ではない時代であったこともあり、指導はとても苦労したと語った。

 ちなみに指導が厳しいこともあってか、新人スタッフから「ゴブリン坂口」というあだ名を付けられたというエピソードを披露。また、そのときの新人スタッフのひとりと、レンタルレコードショップでバイトしていた作曲家の植松伸夫氏が知人だったこともあり、声をかけたという。植松氏はこれに応えてスクウェアに入社。ファイナルファンタジーシリーズの音楽を手がけることとなる。

 また当時を振り返るなかで“ささやかな不満”としてこぼしていたのが、ファミリーコンピュータのディスクシステム用ソフトとして任天堂からリリースされた「中山美穂のトキメキハイスクール」のこと。当時アイドルとして活躍していた中山美穂さんとタイアップしたアドベンチャーゲームで、これにはスクウェア、そして坂口氏も開発に関わっていた。当時の出来事として「上(経営層)の人たちは中山さんと会ったのに、開発現場で作っていた側の自分は会えなかった。ちゃんと現場の人たちに会わせなさい、と主張したい」と語ると、場内からは笑いが起きた。

ドラゴンクエストは“プロ集団”。少しでも近づきたかった

  • この日の坂口氏は、オフレコ話も含めて学生やスクウェア時代の“ぶっちゃけ”話を展開した

 ファイナルファンタジーの開発を振り返るなかで、坂口氏は当初「ファミコンでRPGは作ることができない」と主張していた。当時のファミコン用カートリッジにはバッテリバックアップといったデータセーブの方法がなく、RPGのような長時間遊ばせるタイプのゲームは難しいと考えられていた。そんなときに「ふっかつのじゅもん」というパスワード形式で続きが遊べる王道のRPGとして、当時のエニックスからリリースされた「ドラゴンクエスト」に衝撃を受けたという。後に総力を結集して「ファイナルファンタジー」を生み出し、スクウェアを代表するシリーズタイトルになっていく。

 ファミコン時代から現在に至るまで、ファイナルファンタジーとドラゴンクエストは国内を代表するRPGシリーズとして展開されている。時にはライバル的な存在という見られ方もされていたが、坂口氏にとってドラゴンクエストは、すでに活躍していた堀井雄二氏や鳥山明氏が手がけたタイトルということもあり、「プロ集団で雲の上にいるような存在だった」と一言。当時20代前半で駆け出しだった坂口氏にとっては憧れで、まぶしい存在だったという。その一方で「少しでも近づきたかった」という気持ちと負けず嫌いの性格もあって、さまざまな行動を起こしたという。

 当時のドラゴンクエストは、週刊少年ジャンプで大きく取り上げられていた。そこでファイナルファンタジーも取り上げてもらおうと、名物編集者として知られた鳥嶋和彦氏や編集部に熱烈なアプローチをかけたという。とはいえ、鳥嶋氏から厳しい言葉を受けていたほか、「IV」のころから最新のロムが上がったら真っ先に編集部に見せに行っていたが、そのときに「今度の“ドラクエ”は面白いね」と言われ、相当悔しい思いをしたと振り返る。

 しかしながら、「V」のあたりから鳥嶋氏に認められるようになり、「VI」で、誌面にも大きく取り上げられるようになった。また、坂口氏、堀井氏、鳥山氏の3者が参加したタイトルの「クロノ・トリガー」も生み出された。また鳥嶋氏が「ゲームクリエーターにもスターが必要」と考えていたことや、「Vジャンプ」の立ち上げも相まって、坂口氏を積極的にメディアに登場させていたという。

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