1988年から97年までの9年間にわたりAppleに在籍しました。最初の6年は日本法人、1994年前後からの残りの3年は米国本社で日本代表を務めていました。
この日本代表というのは、米本社の中で主に日本企業とのやり取りをする仕事です。特にApple製品に自社製品を採用してもらいたいという日本企業が、当時続々と米本社を訪問してきました。日本法人はどちらかというと営業を目的としているため、製品開発にかかわる技術的なやり取りは米本社と直接していたのです。
94年当時、AppleはMacのノートPCにカメラをつけようとしていました。当時はノートPCにカメラが内蔵されたものは無かった時代で、ノートPCでビデオカンファレンスをすることなど考えられなかった時代ですが、日本の多数のCCDカメラメーカーが米本社を訪れていました。
日本のメーカーの中でも、特にAppleとの関係が深かったのがソニーです。Macの主要部品がソニー製だった頃です。トリニトロン(ブラウン管)、電源、フロッピーディスクなどなど。いろいろな部品をソニーから買っていました。
「ソニーの最大の顧客はAppleです」なんていう声がソニーの社員から聞こえてくる中で、「あまりソニーに頼りすぎるとまずいのではないか」という批判がApple社内から挙がるほど、ソニーとAppleは密に仕事をしていました。
ただし、両社とも明確なポリシーをもっており、自社の意見を通す企業カルチャーの強さも経験しました。その一例が、データをやり取りする規格(IEEE 1394)についてでした。同じものでしたが、ソニーは「i.Link」、Appleは「FireWire」と呼んでいました。両社が名称を統一することはありませんでした。「Fire」という言葉が日本市場で展開するにはふさわしくないというソニーの判断もあったようです。
ネーミング、デザインへのこだわりは、Appleの大きな特徴です。Steveが社員に対して直接的な指示を出さなくても、社員がみな「Steveだったらどうするだろう」「Jobsだったらこれはやらないね」と考えながら仕事をしていました。それがAppleの企業文化(遺伝子)となっています。何も指示しないのに、皆が意識を共有している。Appleという会社の強さがそこにあります。そう、Steveは死んでも、刻まれた企業文化が人々の胸に残り続けているわけです。
ちなみに、私はソニーにも在籍していたことがありますが、昔のソニーも似た雰囲気を持っていました。皆が「盛田(昭夫)さんならどう考えるかな」と考えながら仕事をしていたのです。
Steveは1985年に権力闘争に負け、追われる形でAppleを去りました。その後、自ら創立したNeXT Computerを創業しました。
1996年、私も出席した本社の役員会議室でのミーティングでのこと。当時のCEOはGil Amelio。議長が次のように切り出しました。
「みなさんもよく知っている人を紹介します」
男がおもむろにドアを開け「I'm back」と言って部屋に入ってきました。それは、紛れもなくSteve Jobsだったのです。AppleはNeXTを買収。買収される形で、Steveは自分がつくった会社であるAppleに舞い戻ってきたのです。
その後、1997年には「暫定CEO」に就任。とはいえ、誰もSteveを「暫定」などと言うわけはなく、自ら使い始めた呼び方です。Steveは当時から、とにかく「i」を付けたかったんですね。暫定CEOを英語に直すと「interim CEO」、つまり「iCEO」というわけです。iCEOとしてSteveが戻ってから、Appleの社内で起きていた混乱がどんどん収まっていきました。「いざとなったらSteveに聞ける」という安心感も良い影響を与えたのです。
SteveがAppleに戻ってやったことは、企業として進むべき方向を合わせるという作業です。
本社の社員が好んで口にした言葉は「Change the world one person at a time.」(世界を変えよう、1人ずつ)でした。
世界を変えるというと大げさに聞こえますが、1人ずつという言葉を加えることで、リアリティが生まれました。この言葉が、Apple II、Mac、iPod、iPhone、iPadと続いたAppleのイノベーションを支えてきたともいえます。
具体的なこだわりを1つ示すと「“スイート”(美しく、シンプル)でなくてはいけない」という原則です。
昔から、ネジがあるものを嫌がりましたし、余計なものは全部取ってしまうんです。一番最初の「Macintosh Classic」を出したときに、筐体が小さいために設置したファンをSteveは嫌がり、絶対付けさせなかった。ファンをつけた試作品をSteveに見せたときに、不機嫌そうにガムテープを張って帰ってしまったという話が社内に残っていました。
「ガムテープを張られたよ」という話が、エンジニアの間で伝説として語り継がれていたのです。そのあたりの話はiPhoneにもつながります。小さな箱にさまざまな機能を詰め込んだ上、「スイート」なまま製品化してしまうエンジニアを支えているのは、Steveの哲学にほかなりません。
また、製品を開発する際のミッションは「コミュニケートする方法を変える」でした。PCをつくる際、最初に「このPCで教育はどう変わるのか」といった話からスタートします。メモリとかHDDとか、そんな話はしません。そのあたりが、他社との発想の違いと言えます。
SteveはAppleという会社を創業し、さらに11年後にカムバックして、新たな企業としてAppleを再生しました。世界を2回も変えたのです。そのような人はなかなかいるものではありません。Steveの遺伝子は企業文化にまで昇華し、さらに死したのがAppleの絶頂期であったことからも、ある意味で「神格化」された可能性があります。
Steve亡き後のAppleを憂う声もありますが、私は、Appleが今後も相当長い間大丈夫だと感じています。
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