ここまで一人称をほとんど使わずに書きすすめてきたのですが、以下からは使わせてもらいます。2009年9月中旬、ここは東京の世田谷にあるファミリーレストランです。家にいると集中できないので、よくここにノートパソコンを持ち込みます。昼下がりのよく冷房の効いた店内で、ぼくは頭を抱えていました。
「これは……どうすればいいんだ」。
第5回の原稿を書き終えたのが8月中旬のことでした。この時点で、すでに4月のダブリン会議から2カ月が過ぎてしまっています。前に述べたとおり、次の東京会議は10月下旬。せめてこれが始まる前にダブリン会議の報告をしないと、現実に遠く引き離されてしまいます。すぐさま執筆に取りかかることにしました。
ぼくの場合、原稿を書く前に図版をつくってしまいます。書くべきことが整理されるからです。この連載でも第6回、第7回で使った図版の大半は、この時期につくったものです。最初に符号位置の異同(図8)をまとめて全体像を把握した後、個別のレパートリごとに変遷をまとめていきました。最も異同が激しかった動物(第6回-図2、図3)、それから会議の最後に論戦となった「地域や言語の標識として使われる絵文字」(図6)。
ここまでまとめて、第5回で取り上げた顔文字のことを思い出しました。アイルランド・ドイツ提案が、日本のキャリア原規格を誤解した形で文字をデザインしていました。あれはダブリン会議でどうなったのだろう? その顔文字をまとめ終えたところで頭を抱えてしまったのです。以下がその時の図です。
ぼくが原稿で指摘したような問題はまったく考慮されず、修正もされていませんでした。上図の中から典型的な例を一つ抜き出してみましょう。
日本では困った様子、それもあまり強くない困惑を表現する際、顔の横に縦長の水滴(冷や汗)を置くのはごく当たり前のことです。年齢差もあるでしょうが、おそらく50代以下で子供の頃からマンガやアニメ、ゲームに親しんできた人、つまり大多数の人には通じるはずです。だからこそキャリアは絵文字として取り込んだわけですが、やはりそれは日本独自の表現──というより「文化」なのです。
しかしアイルランド・ドイツにとっては、そんなこと知る術もありません。だからこそ彼等は、われわれには泣いたように見えるデザインにしてしまったのです。それでもアイルランド・ドイツは、ISO/IEC 10646に収録される文字は普遍的であるべきという、彼等なりの信念によりデザインを変更したのです。
ということは、こういうことが言えないでしょうか。顔文字においても、ダブリン会議での「議論の余地のあるもの」と同じ対立、つまり「国際規格とは世界中の人が使える普遍性を優先すべきか、それとも元からあるローカル規格との互換性を優先すべきか」という対立が発生していると。
しかし決定的に違う点があります。ダブリン会議での対立は、会議の参加者全員が知っていました。当然ですね。ところがこの顔文字の問題は、誰も気づいていないのです。おそらく、誰も何も言わなければ、これらの顔文字はそのまま規格化されてしまうでしょう。じつは第5回を書いた時点では、たぶん修正されるだろうと思っていました。Google・Apple提案に日本人も加わっているからです。彼等もマンガを読んで育ったろうから、きっと気づくだろうと。しかし楽観的すぎたようです。
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