筆者は「T-Mobile G1」(米国外では「HTC Dream」)を初めて使った時の印象を忘れることはないだろう。これはGoogleのモバイルOS「Android」を世界で初めて搭載したスマートフォンだ。スライド式のディスプレイや、その下に鎮座するQWERTYキーボード、操作用のトラックボールが組み合わさっている。しかし、これが発表された数カ月後の2009年、筆者を魅了したのはスマートフォン自体ではなく、3.2インチのディスプレイに表示されているものだった。
米CNETのオフィスがあるサンフランシスコの通りを少し下った場所で、Googleの開発者会議が開催された。米CNET唯一のモバイルアプリ専門記者になるという意気込みのもと、ソフトウェアレビュアーだった筆者も会場に向かった。理由はひとつ。「iPhone」向けOSとして鮮烈なデビューを果たしたAppleの「iOS」に対抗すべく、Googleが発表した斬新なOS、Android向けに開発された最初のアプリ群を体験することだった。多数のサードパーティーアプリが、「Google Play」ストアの前身である「Android Market」に登場しようとしていた。Android Marketが公開された2008年当時には、約35個のアプリしか登録されていなかった。
筆者は世界中のほとんどの人よりも早く、これらのアプリを試す1人になることは分かっていた。しかし、GoogleのAndroidプラットフォームがどれほど華々しく世界の席巻に向けてロケットスタートを切るのか、そしてこれらのアプリがどれほど強力にそれを後押しするのかという点は理解できていなかった。
このことは調査結果に表れている。最初のAndroidスマートフォンが発売15周年を迎えた9月23日、スマートフォンの所有者は46億人を超えると推定され、そのうちAndroidを使っている人は他のどの競合OSよりも多い。StatCounterの調査では、2023年8月時点で世界のスマートフォンの10台に7台はAndroidを搭載している。つまり、世界のスマートフォン人口の70%がAndroidユーザーなのだ。
Androidが世界の多数派を占めていることは、Googleのモバイルビジョンの強靱性だけでなく、社会が劇的に変化していることの現れでもある。米CNETがGoogleからメールで得た情報によれば、現在、稼働しているAndroid端末(スマートフォン以外を含む)は30億台を超えるという。これらは各地でカメラのシェアを奪い、多くの場所ではPCにさえ取って代わった。しかも操作性はシンプルで、誰でも使うことができる。
Statistaの統計によると、現在Google Playストアで取り扱われているAndroidアプリの数は250万を超えるという(Googleに正確な数をたずねたが、回答は得られなかった)。しかも、この第一世代のプログラムは当時の他のスマートフォン向けプログラムよりもぎこちなく、できることも少なかった。世界初のAndroid向け「アプリケーション」は、ロード時間が気が遠くなるほど長く、ライブデモの最中にエラーが起きることも珍しくない。グラフィックは稚拙で、体験全体がWeb1.0の時代を思わせた。しかし、Googleの共同創業者であるSergey Brin氏とLarry Page氏は、Androidがデビューを飾った2008年9月23日、ローラーブレードを履いて登場したが、そうでなくても人目を引くには十分だった。
あのGoogleが、スマートフォンを出す――メディアが飛びつかないわけがなかった。
GoogleのAndroidとAppleのiOSがスマートフォンのルールを書き換えるのにそう時間はかからなかった。Googleがすべきことは、2007年にiPhoneを発表して世間をあっと言わせたAppleと同じように、革新性をもって、Androidをたくさんのモバイルアプリでにぎわう、究極にシンプルで使いやすいプラットフォームにすることだけだった。
Googleの成功は偶然ではない。デザートをコード名に採用した「Cupcake」(Android 1.5)や「Lollipop」(Android 5.0、5.1)は大々的に発表された。同社はサムスンやMotorolaといったハードウェアメーカーとの戦略的提携を結び、またAppleのiOSに先んじて、プッシュ通知、ターンバイターン方式の経路案内、モバイル決済、ワイヤレス充電の機能を実現した。これらは、今や多くの人々にとってなくてはならない、あらゆる場面で生活を支えるスマートフォンの誕生に寄与した。
Googleは今も新たな地平を切り拓き続けている。Androidの発展により、サムスンの「Galaxy Z Fold5」のような、ディスプレイを半分に折りたためるタブレットサイズの端末が登場し、アプリを自在に動かし、複数のディスプレイにまたがって表示させることさえ可能な時代が到来した。
初期のAndroidアプリを見て、このプラットフォームがいずれ世界を席巻すると予想できた人がいただろうか。いたとしても、間違いなく私ではない。当時はAndroidとiOSの他に、勢いのあるモバイルOSがいくつも存在した。筆者には、そうしたOSがいずれ衰退すると断言できるだけの知見がなかったのだろう。特に、かつての競争相手「Symbian」は、一時は70%の世界シェアを誇った。「BlackBerry」やMicrosoftの「Windows Mobile」も大きな存在感を放っていたし、Palmの「webOS」は復活し、テックメディアの注目を集めた。多くの点で、これらの実績あるライバルたちは性能の面でも洗練度の面でもAndroidとiOSを大きく凌駕していた。
今から思えば、Appleの路線を踏襲し、アプリの機能をできる限りシンプルなものにするというGoogleの決断は、当時のスマートフォンの流れに逆行する大胆なものだった。それは、最初から意図されたものだったのだろうか。
よく言われるように、重要なのは文脈を理解することだ。そこで当時の背景を振り返りたいと思う。
AppleがiPhoneを出すことは、理にかなっていた。当時のAppleはカルト的な人気に支えられたブランドだったが、画期的な携帯音楽プレーヤー「iPod」の爆発的ヒットにより、一気にメインストリームに躍り出た。その後に登場したiPhoneは、より大きく、よりパワフルな、電話機能付きのiPodのように見えた。この「大きなiPod」は、ディスプレイに指を置いて操作できるという、驚きのインターフェースも備えていた。一方、Googleはインターネット検索の会社であり、広告事業を手広く展開していた。そのGoogleがスマートフォンを出す――それは、必ずしも理にかなっているとは思えなかった。
「興奮した面持ちで、誰かが巨大なホワイトボードに何かを書き始めた。(中略)それは『Google Phone』か、それとも『G Phone』か」――これは2008年、Android発表に先だって開かれた米CNETの企画会議について筆者が書いた文章だ。どちらの予想も外れた。初のGoogle純正Androidスマートフォン「Pixel」が登場するのは、それから8年後の2016年10月のことだ。
自社開発したAndroidソフトウェアを提供しつつ、HTCのような新進気鋭のデバイスメーカーと組み、互換性のある多彩なハードウェアを作ることがGoogleブランドの天才的なところだった。Googleはサードパーティーの開発者たち(その多くはiOSアプリに続き、Androidアプリの開発でも収益機会を狙っていた)に声をかけ、Androidアプリを積極的に増やしていった。
これが、筆者がサンフランシスコのモスコーンセンターの静かな一角で、ビーズクッションに身体を預けながら、新しいAndroidアプリを次々とタップするようになるまでのいきさつだ。こうしたアプリのほとんどは、最初はiPhone向けに開発されたものだった。
その日は会場で5つのアプリのデモを体験したことを覚えている。当時書いた記事は、インターネットの海に埋もれ、もう見つけることはできない。5つのアプリの1つは、「TuneIn Radio」だった。後に、このアプリのiOS版について、同僚は「(当時としては)完璧に近い」と評している。筆者が見たデモでは、世界中のラジオ局から好きなものを選んだり、その瞬間に他の人がアプリで何を聴いているかを確認したりすることができた。
人気曲のランキングボードや、各国のラジオ局を一望できる世界地図もあった。デモの途中でアプリが動かなくなる場面が何度かあったが、あとは説明を読んで想像してほしいと言われた。デモを進行していた幹部は、筆者の隣のビーンズクッションに座り、このアプリのわずかなオプションを笑顔で誇らしげに語った。
「いいね。でも、それだけ?」と、思ったことを覚えている。
多くの人と同様に、私にも学ぶべきこと、そして捨てるべき思い込みがたくさんあった。
2000年代前半のアプリについて、知っておくべきことがある。Apple、そして後にはAndroidが追究した徹底したシンプルさは、当時のアプリ開発の主流だった考え方の真逆を行く、大胆なものだった。
筆者の亡父がかつてSteve Jobs氏を評して言ったように、AppleとGoogleのやり方は「型破り」だった(父は、Appleの共同創業者であるJobs氏およびSteve Wozniak氏と同じ時期に、シリコンバレーのHomebrew Computer Clubに参加していた)。
筆者はサムスンの「BlackJack」やPalmの「Treo 650」、Nokiaの「N95」、BlackBerryの「7100」といった往年のフィーチャーフォンや初期のスマートフォンの内部を見たことがある。当時ハードウェアのレビューを担当していた同僚が空き時間にいじらせてくれたからだ。
こうした端末の入り組んだファイル構造や秘密の暗号を解き明かしたかった。例えばエグゼクティブの間で人気があった手のひらサイズの電子手帳「PalmPilot」(電話ではない)は、「Graffiti」と呼ばれる速記のような入力方法を採用していた。
筆者は小さなペンでディスプレイをタップし、「不思議の国のアリス」の縮み薬を飲んだかのような極小サイズのQWERTY配列キーボードを叩き、入れ子になったファイルツリーやフォルダーをあさっては小さな文字に目をこらした。
iPhoneやAndroidが登場するまで、携帯端末の開発ではフルサイズのデスクトップPCにどれだけ近づけるかが重要だった。初期のスマートフォンの対象ユーザーはビジネスパーソンであり、当時としては非常に高性能で、先進的なシステムを搭載していた。価格も高く、必然的に顧客は絞られた。子供やちょっと興味を持っただけのレイトアダプターが気楽に入手して使えるような個人向けのデバイスではなかった。
そしてこれこそが、AndroidとiOSが当時の代表的なモバイルプラットフォームと大きく違った点だ。AndroidとiOSの成功要因は、PC並みのパフォーマンスや複雑さを追究しようとしなかったところにある。例えばGoogleは、単純明快で使いやすいアプリがあれば、(一世を風靡した)手のひらサイズの小型コンピューターにつきまとったストレスや面倒を取り払い、人々の生活を大きく改善できると考えていた。
初期のAndroidアプリは、iPhoneアプリと同じく、必ずしも高性能ではないが、直観的に使えるものが多かった。当時の他の携帯端末と違って、ハイテクに詳しくなくても、操作手順を正確に憶えていなくても、手先が器用でなくても使うことができる。Androidは技術オタクやエグゼクティブだけのものではなく、すべての人のためのものだった。
Androidが成功するためには、主流のユーザーという未開拓の層にアピールする必要があった。しかしもう1つ、GoogleはAppleのiPhoneがしなかったことをした。それが結果として、Googleに成功をもたらす。
当時のGoogleは、ハードウェアではなく、プラットフォームを所有する企業だった。そのため、GoogleはAppleのように独自のエコシステムを構築するのではなく、HTCなどの携帯端末メーカーと組む道を選んだ。それは事実上、「違い」を受け入れることを意味した。
つまり、ある程度の標準を満たすハードウェアであれば、Androidはどんなスペックの端末にも搭載できた(低スペック端末用の「Android Go」を思い出してほしい)。この柔軟性により、Androidをさまざまな形、価格、ハードウェア性能のデバイスに搭載できるようになった。
しかし、異なる価格帯、ハードウェア構成、ソフトウェアバージョンのAndroid端末が共存する状況は、「フラグメンテーション(断片化)」という別の問題を引き起こした(フラグメンテーション問題への批判は、Androidの2014年の広告キャンペーン「Be Together. Not the Same(一緒にいよう。同じになるのではなく)」につながった。このキャンペーンを仕切ったのは当時Android担当シニアバイスプレジデントで、現在はGoogleとその親会社Alphabetの最高経営責任者を務めるSundar Pichai氏だ)。
フラグメンテーション問題はあるにせよ、ユーザーが端末を選ぶ際に重視する基準が何であれ、Androidスマートフォンの特徴はこの選択肢の多さにあった。
結局のところ、これがビーズクッションに埋もれながら筆者が抱いた疑問の答えだったのだろうか。Androidが世界中でシェアを伸ばした大きな理由は、高価な端末を所有できるエリート集団だけでなく、どんなユーザーも受け入れる豪胆さにあったのだろうか。今思えば、それは明白なことに思われる。
「いいね。でも、それだけ?」
それだけかもしれない。GoogleのAndroidがモバイルプラットフォーム市場を支配する原動力となった哲学は、とてもシンプルで、しかし奥深いものだったのかもしれない。
この記事は海外Red Ventures発の記事を朝日インタラクティブが日本向けに編集したものです。
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