2021年に宇宙へ行った宇宙飛行士の数を、民間の宇宙旅行者が上回るなど、「宇宙」と私たちの距離は急速に近づいている。また、地図アプリや天気予報など、日常生活の中でも至るところに宇宙は活用されている。それでも、まだまだ「宇宙は遠い世界の出来事だし、一生関わることはない」と捉えている人も多いだろう。
では、いままさに最前線で宇宙に携わっている人々は、どのようなきっかけで宇宙と接点を持ち、それを生業とするようになったのか。この連載「人類の未来を切り拓く『宇宙ビト』の原点」では、さまざまな分野で活躍する「宇宙人(ビト)」の原点を紐解くことで、宇宙への見方が変わるヒントをお届けする。
トップバッターとなるのは、NASA ジェット推進研究所(JPL)研究員の小野雅裕氏。なぜ、宇宙に魅せられたのか。JPLにおいて、どのようなミッションを成し遂げようとしているのか。米国在住の同氏にオンラインインタビューした。
——まず、小野さんが現在、宇宙とどのように携わっているのか教えてください。
僕はNASAのジェット推進研究所(JPL)で働いていて、いま主に2つのプロジェクトに携わっています。1つ目がいま火星にあるローバーです。火星から届くデータをチェックしたり、コマンドを作ってローバーを操作したりしています。
2つ目が、「EELSと呼ばれる」ヘビ型ロボットの開発です。土星にはエンケラドゥスという直径500キロほどの、表面が氷で覆われた衛星がありますが、その氷の下には海があり、もしかしたら生命がいるかもしれません。そして、その氷には割れ目があるので、そこをヘビ型ロボットで降りていけば海に辿り着けるのではないかと考えました。
現在はまだ研究段階で、実現するとしても2040年代かそれより先でしょう。チームの規模は約50人くらいで、僕がリーダーを務めています。ちょうど先日も、地元のスケートリンクを深夜から早朝まで貸し切って、(試作機の)実験をしたところです。
——ヘビ型ロボットのお話はワクワクしますね。では、小野さんがどのようにして宇宙と出会い、いつから宇宙に携わりたいと思うようになったのか、振り返っていただけないでしょうか。
最初は、5歳(小野氏は1982年生まれの39歳)のときに父が買ってくれた「天体望遠鏡」でしたね。父も学生時代に天文学部だったので、星に興味があったんだと思います。望遠鏡で月や惑星を見ていたのですが、やっぱり子どもながらに、あれは面白いですよね。月の細かいクレーターや土星の輪っかなども、もちろん知ってはいましたが、本物を見ると全然違いますよね。今ではググればすぐに綺麗な写真を見られますが、それでもレンズを覗いて見ることには変えられない興奮があります。
これを5歳の時に経験したあと、6歳の時に「ボイジャー2号」がすごくニュースになったんですよ。当時ほとんど何も分かっていなかった海王星について、探査機が近づいていくにつれて、毎日のように新しいことがどんどん分かっていくんです。ほんの数週間のうちに人類の知識がどんどん更新されていく。この興奮をリアルタイムで味わえたのは大きかったですね。
——では、6歳の時にすでに宇宙の道に進もうと?
ただ、そこから(宇宙に)一直線というわけでもないんですよ。先日、日本の実家に帰ったときに、母が僕の小さい頃の絵をまとめたスクラップブックや文集を掘り返してくれたのですが、小さい頃はとにかく電車や恐竜が好きでしたね。あと、小学校の頃に図書館で相対性理論の漫画があって、アインシュタインや物理学にハマった時期もありました。もちろん、(他の子どもと同じように)ミニ四駆などにもハマりましたよ。
中学生の頃はPCにハマりましたね。プログラム言語を独学で勉強したり。あと、ちょうどインターネット黎明期だったので、世界中の人とやりとりできることはとてもエキサイティングでした。
——そこから宇宙にまた近づいていくのですね。
そうですね、大学を選ぶ時期になって、自分は何がしたいのかを考えた時に、やはり宇宙だなと。そこで東大の航空宇宙工学科に進みました。大学では、中須賀研究室に入ったのですが、タイミングに恵まれて、ちょうど世界で初めてキューブサット(小型人工衛星)を打ち上げるところでした。
そこで、僕は有志に応募してキューブサットのオペレーションの仕事をもらい、研修室に何日も泊まり込んで朝番を担当しました。アンテナを空に向けると、宇宙から音が聞こえてくるわけですよ「キュービビビ」って。それって鮮烈な体験ですよね。自分はいま宇宙と交信しているんだと。
あと中須賀研では、次の衛星も開発していたのですが、本当にあの頃は若いこともあり、夜は研究室の椅子を並べてそこに突っ伏して寝て、朝はコンビニのご飯食べて、ひたすらプログラムして、はんだ付けがうまくいかなくて何個も何個も基板を壊して……それはいいエンジニアリングの経験でしたね。
それで4年生のときに、自分たちで開発していた「カンサット」と呼ばれる簡易衛星を、ネバダ州のブラックロック砂漠に持っていって、アマチュアロケットを使って高度数kmに打ち上げるんですよ。
僕はその時のチームのリーダーをやったのですが、これがまた面白かったですね。実験自体は成功20%、失敗80%くらいでしたが、自分でゼロから人工衛星に近いものを設計して、GPSからコンピューターから全部作るんです。仲間たちと寝る間を惜しんで作って、皆で米国まで持って行って、砂漠からロケットを飛ばして。
——すごい経験をされてますね。
その後は、米国のMIT(マサチューセッツ工科大学)に留学しました。簡易衛星を飛ばした時は、まだあまり米国へ行きたいという気持ちはありませんでしたが、4つ年上の先輩がMITに留学していて、彼が帰国した際にいろいろと話を聞き、こんなにチャンスがあるんだと思い、ゼロから勉強して僕も留学することにしました。ちなみに、彼は今はSpaceXでスターシップの着陸を担当しています。
——大学時代の簡易衛星の打ち上げや米国留学などを経て、社会人で宇宙業界に進むのでしょうか?
そうですね。ただ、留学中に夢を諦めかけた時期もありました。いろいろな理由がありますが結構大きいのが、僕は小さいころから「宇宙宇宙」と言い続けてきたけれど、ある時、僕より他の人の方が立派なことをしているように見える時期があったんです。当時付き合っていた彼女が、飢えで死んでしまう子どもを減らすための国際支援の取り組みをしていたこともあり、世界でこれだけ飢えて死んでいる人がいる中で、宇宙って何なんだと。
そこで一度、宇宙への情熱を失いかけたのですが、ちょうど山崎直子さんのスペースシャトルの打ち上げのタイミングでした。打ち上げの瞬間を目の前でみたときに興奮して涙を流し、「やっぱり自分には宇宙しかない」と思ったんです。それで迷いが吹っ切れて、そりゃあ行くなら昔ボイジャーに憧れてきたんだから、ボイジャーを作ったJPLだろうと。
実は最初は受けたものの落ちてしまって。夢やぶれて日本に帰国して、慶応大学で1年間ほど助教授をしていました。ただ、帰国する前にJPLにインターンする機会をもらっていたので、これがラストチャンスだと思って死ぬほど頑張って結果を出していたこともあり、帰国して1年後にJPLから声がかかり、今に至るという感じですね。
——それは小野さんが何歳の時ですか?
30歳の誕生日を慶応の学生たちに祝ってもらったので当時は30歳ですね。
——JPLに入ってからは何年経ったのでしょう?
9年強ですね。
——10年近くJPLにいらっしゃるのですね。では、これまでの9年間の歩みについても聞かせてください。
いろいろありましたね。JPLはとてもコンペティブな組織で、仕事は勝手にはアサインされないので、いわば“社内就活”が必要なんです。たとえば、A・B・Cという3つのプロジェクトに50:25:25%と自分のリソースを配分したとして、お給料はそのプロジェクトの予算から同じ比率で出てくるんですよ。なので、常に我々の時間を100%雇ってくれるプロジェクトがないといけない。
もちろん、みんながみんな仕事がなくなって辞めていくわけではなく、ちゃんと面倒は見てくれますが、基本的には自分の実力を示して、プロジェクトに雇ってもらって結果を出していかなきゃいけません。
僕はプログラミングなどのソフトウェア系なのですが、自分のスキルに自信は持っているけれど、やっぱりここに来ると、到底かなわないようなすごいプログラマーが山程いるんですよね。何て言うんだろう、(「ドラゴンボール」を例に)亀仙人のもとだけで修行してたけれど、天下一武道会に出たらもっとすごいやつらばかりだった、みたいな感じですよね(笑)
なので、プログラミングで勝負したら勝てないので、自分はクリエイティブな面で、予算を獲得してプロダクトを作っていかなきゃいけないと思いました。何度も失敗しながら2〜3年目のときに、額は小さいけれど自分の目指すプレゼンスを得ることができて、それからは結構お金を取れるようになっていきました。
——組織の中に入ったら安泰なんて世界ではないのですね。自分でどんどん実力をアピールしていかないといけない。
そうですね。入社当初は雇われて仕事を探す側でしたが、いまでは9年経ってプロジェクトをマネージする立場なので、逆に社内の優秀な人材を取り合っているところです。さらに民間の宇宙企業からの人材の引き抜きもあるので、これもまた苦労しますよね。
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