スピルバーグ監督の「A.I.」から20年--ガジェットの未来について考えてみた - (page 3)

Scott Stein (CNET News) 翻訳校正: 川村インターナショナル2021年07月29日 07時30分

 A.I.は、ダークなおとぎ話として設定されているので、非論理的な展開は許容できる。ときには、涙を誘われることもある。デイビッドが1人で海底に沈み、奇跡を願う場面だ。その願いは叶うが、それも一瞬にすぎない。また、デイビッドが創造主と向き合う場面や、夫婦の実の息子を殺しかけてしまう場面は、その冷たい雰囲気に今でも衝撃を受ける。この作品を繰り返し見てしまう一因は、こんな風に感情を揺すぶられることにあるのだろう。

 あるいは、ニュージャージーからマンハッタンへという筆者の通勤経路が、悪夢のような未来の姿で描かれていることが理由かもしれない。A.I.の舞台はニュージャージーで、未来のどこかの時点でニューヨーク市は破壊されている。ロボットの少年は、郊外から、まだ半分残っているニューヨーク市の都心へとたどり着くのだ。

 年を重ねるにつれて、この映画の見方も変わってきた。独身だったロサンゼルス時代、自分のキャリアも人生もまだ定かではなかった頃には、ロボットの感情と生き方についての映画だと思っていた。やがて親になってみると、親であることと、消費社会についての物語だと考えるようになった。自分だったら、ロボットは買うだろうか。買ったとしたら、家族にとってどんなものになるのか。自分はなぜ、こんなにたくさんのテクノロジー製品を買ってしまうのか。そして今では、人間というものがどうしても神を演じたいものだというストーリーとしてとらえている。デイビッドが、自分を作り出した「サイバートロニクス・マニュファクチャリング」にたどり着くのも、デイビッドの旅そのものも、巧みに仕組まれたものと思える。それに続くエンディングで、デイビッドは意識を取り戻し、「メカ」だけが生き残った世界にいる。だが、その世界にいる進化したロボットは、私たち人間と全く同じことをしているのだ。生命を模倣し、創造を実験する。

 デイビッドは本当に考えたり感じたりしているのか。それとも、すべてシミュレーションなのか。私たちも、映画で描かれるようなチューリングテストの一部にすぎないのだろうか。そういった疑問を頭の中で反すうする。創造主のいないガジェットとは、創造物とは、いったい何なのか。Ted Chiang氏の中編小説「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」では、知能を持つ創造物が、世界に適合するように作られたものの、その世界が変わり続けるにつれて、最終的には遺棄され、時代後れになり、面倒をみてもらわなければならなくなっていた。A.I.でも、先に挙げた疑問が問われる。古いロボットはすべて集められて処分されるが、遅かれ早かれ自分たちは交換されるのだと意識している。特別のように思えるロボット少年のデイビッドは、このプロセスを知らないため、なおさら疑問に感じるだろう。

 A.I.は、欠陥のある未来図であり、完璧なSFを目指したものではなかったのかもしれない。未来は分からないものなのだ。A.I.の公開から数カ月後、9月11日の同時多発テロの後で、筆者はニューヨークに戻って家族と再会した。A.I.の中では、今から2000年後の、凍てついたマンハッタンに、世界貿易センターのツインタワーは健在だった。

 だが、2021年の今、私たちはかつてないほど気候変動に憂慮している。テクノロジーに対する心理的な依存を解決する手段は、まだつかめていない。そして、テクノロジー企業も今まで以上に、製品を通じて共感と感情によるつながりを深めようと模索している。A.I.に描かれた基本的な前提は古びていない。少しだけ、ほこりが積もったにすぎないのだ。

この記事は海外Red Ventures発の記事を朝日インタラクティブが日本向けに編集したものです。

CNET Japanの記事を毎朝メールでまとめ読み(無料)

-PR-企画特集

このサイトでは、利用状況の把握や広告配信などのために、Cookieなどを使用してアクセスデータを取得・利用しています。 これ以降ページを遷移した場合、Cookieなどの設定や使用に同意したことになります。
Cookieなどの設定や使用の詳細、オプトアウトについては詳細をご覧ください。
[ 閉じる ]