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名門音楽学校やソフトバンクアカデミア--異色のキャリアをもつ虎岩正樹氏が説く「伝える力」の大切さ

藤井涼 (編集部) 藤川理絵2020年09月14日 09時00分
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 米国のヘビメタルバンド「メタリカ」が、著作権侵害で音楽ファイル共有サイト「Napster」を訴えるなど、インターネットを介した音楽のシェアが大きな社会問題になった2000年代初頭、米国のハリウッドにある世界最大級の音楽学校「Musicians Institute(MI:ミュージシャンズ・インスティテュート)」で、いち早くITを活用した新学科を創設し、初代学科長を務めた日本人ギタリストがいる。

虎岩正樹氏
虎岩正樹氏

 帰国後に、ソフトバンクアカデミア社外1期生、シルクドソレイユキャスティングパートナー、MI Japan校長などを経て、現在はコーチングやイベントオーガナイザー、テイラー・ギターズのプロダクトスペシャリストなど、マルチに活躍する虎岩正樹氏(53歳)だ。「ただ流れに身を任せて生きてきた」と語る同氏のユニークな半生を紹介するとともに、キャリアやビジネスに生かせるエッセンスを抽出してお伝えする。

英国での路上ライブで日銭を稼いだ学生時代

 話は虎岩氏の学生時代まで遡る。バンドにのめり込みながらも高校をかろうじて卒業し、アルバイトで生計を立てながら4年間バンド活動を続けたのちに、「音楽を勉強してみたい」と英国へ渡ったのは、同氏が22歳の時だ。英国最大のリーズ音楽大学に留学した。

 「英国では、大学に通いながら、路上で音楽を演奏するというスタイルで生きていた。週末2日間のストリートミュージシャンのチップだけで、1週間分の食費くらいは稼げると分かったことは、約20年間の海外生活でもトップ3に入る財産になっている」(虎岩氏)

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 留学ビザでは、働けない。路上で演奏するくらいならできるだろう、と軽いノリで始めた。路上では、自分がよいと思う演奏がダメだったり、逆に意図せずイケるという発見の連続だった。アジア人にギターなんか弾けるわけがないと差別的な扱いを受け、会話をすることで理解してもらえた場面もあった。「聞き手とのリアルなやり取りの積み重ね」が、虎岩氏のファーストキャリアとなった。

 留学を終える頃には、英国のいわゆる大都市すべてで路上ライブをしていた。時には「お前、先週はあそこにいただろう」と声をかけられることも。そこから現地のテレビの仕事や、バンド加入の誘いに発展したという。

 虎岩氏は、あくまでも後付けと念を押しながら、「好きなことを、食えなくてもいいから、じわじわ続けてやっていると、何かにつながると当時の経験から確信的に信じられるようになった」(虎岩氏)と振り返る。

米国の世界的な音楽学校の講師に

 英国留学を終えた後は、26歳で米国に渡った。日本ではフリーター(という言葉も当時はなかったが)、英国では路上ミュージシャン。今から一般社会に受け入れてもらうのは難しいと思った。しかしそれ以上に、憧れのギターの先輩たちがいるロサンゼルスに、どうしても行ってみたかった。

 音楽の世界的な名門MI(ミュージシャンズ・インスティテュート)への留学は、1年限定のつもりだった。が、最終的に13年もの間ロサンゼルスで過ごすことになる。在米中には、ギタリストとして数多くのライブやレコーディングに参加する傍ら、MIで講師、学校運営、新学科「インディペンデント・アーティストプログラム」創設にも携わり学科長も務めた。

 虎岩氏は「いま思うと、僕はただ流れに身を任せていただけ」と笑う。好きなことをひたすら追求した日本・英国時代とは、また違った面を覗かせる。

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 その流れをつくる、最初のきっかけとなったのは、虎岩氏が自主的に始めたという日本人留学生向けの補講だ。MI留学中の多くの日本人は、英語が不得意だった。演奏はできても、理論の授業についていけない。講師陣も頭を抱えていたという。

 「仲のいい先生たちが困っているのを聞いて、僕は英国に4年いて英語の授業にもついていけていたので、日本人向けに補習の授業を始めた。その子たちが理論のテストを合格するようになって、僕も教えるのが楽しいなと思うようになった」(虎岩氏)。ここでも「教える道に入ったのは本当に偶然だった」と話すが、周囲の状況を見渡して、自分にもできる役割を見出し行動に移したのは虎岩氏自身だ。

 卒業と同時に、講師のアシスタントをやらないかと声がかかった。ギタリストとして活動しながら講師にも昇格した。MIの経営体制変更で、また声がかかり学校運営にも携わるようになった。「断る理由もないし、訪れた波に乗ってみることにした。周りで起こっている状況に身をまかせる勇気があると、思ってもみなかったところにたどり着くということは、米国時代にすごく感じた」(虎岩氏)

 虎岩氏は、「日常の中にも、自分という殻の外には、いろいろな波がある」と、いま改めて思うという。乗るべき波が来た時に、逃さずにしっかりと乗る勇気を持てば、運は味方につけられるという考え方だ。

テクノロジーを脅威から「チャンス」に変える新学科を創設

 そうした流れの中、虎岩氏は自ら提案した新学科のインディペンデント・アーティストプログラムを創設し、学科長を務めることになる。

 「自分の憧れのアーティストたちは、音楽学校には行っていない。むしろ、自由に独学でいろいろやっていることが、オリジナリティの象徴だと思っていた」ーー。学校運営に携わりながら、虎岩氏はずっとそんな違和感を抱えていたという。

 そのような中、2000年頃に台頭してきたのが「Napster」。音楽ファイル共有サービスだ。誰でもそこから音楽をダウンロードして聴けるようになった。自分で音楽を買ったことがないという学生も少しずつ現れるようになっていたが、音楽業界も音楽学校も、テクノロジーを自分たちの存在を脅かす“脅威”と捉えて批判していた。一方で、虎岩氏はそれを「チャンス」と見た。

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 「テクノロジーがどんどん進化していく中で、ITはアーティストにとって圧倒的に有利なツールになると思った。これまでアーティストが作品を売るには、レコード会社などに流通をお願いして任せるしか道がなかったのに、これからは人を介さず自分で直接届けられるようになるのだから」(虎岩氏)

 テクノロジーによって既存の枠組みが破壊される恐怖より、ITの進歩に遅れを取ることへの危機感が募った。時代の変化に適応する術を、ミュージシャンの卵たちに、何も教えなくてよいのか。

 そこで、音楽の理論や技術を学ぶことに加えて、自分の作品や演奏をどうやって世の中に伝えていくか、ビジネスやマーケティングまで学べる、1つのパッケージを考えた。「学校なんか行かないよっていうロックな人たちが、『そこだったら行きたい』っていうような学校を作りたいね、と何人かの先生と話し合った」(虎岩氏)

 そして、学校中が大反対の中「インディペンデント・アーティストプログラム」が誕生した。アーティスト自身が音楽制作やビジネスをする時代が来るという時代背景に合わせて構築した新学科で、作曲/楽器演奏(音楽)×DTM(レコーディング)×音楽ビジネスという3つのエリアを、自分のアルバム製作というプロジェクトを通して学ぶというコンセプトだ。学生が自分でプロデュースしたアルバムをリリースすることを卒論の代わりにした。

 言い出しっぺなんだからお前がやれと言われ、ここでも流れに身を任せて学科長に就いた。少数派の仲間とともに形にした企画を、無に帰すのも嫌だったからだ。

 なお、虎岩氏は日本に帰国してMI Japan校長を務めた2年間で、このプログラムを日本向けにアレンジ。まだ楽曲を販売する人が少ない中、学生全員の作品をiTunesで世界市場に売り出す取り組みを企画して実行した。

40歳で初めてのサラリーマンを経験

 虎岩氏が突然MIを辞めて、日本に帰国したのは2006年のこと。仕事も家や財産も人脈も、全部ひっくり返す、40歳の“大掃除”だった。

 「キャリアとしてはうまくいっている感じがするし、辞める必要もなかったけれど、そもそも米国という国に肌感覚が合っていなかったことに対して、ツケが回ってきたというか……。13年経って、僕がそこにいることへの違和感が大きくなってしまった。どこかで自分で転換しないと、このままズルズルいくなと思った」(虎岩氏)

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 帰国して2年間は、ギターを売る営業職に就いた。担当エリアは縁もゆかりもない東北。40歳にして日本で初めてのサラリーマンだ。客先での共通の話題はゼロに等しかった。けれど、無料のギターセミナーや、英語で困っている人の手伝いを、ギター販売の傍らボランティアで続けていると、売上がどんどん伸びていった。

 「僕がインディペンデント・アーティストプログラムでやっていたことが、その時ものすごく生きた。自分がやってきたことを一度引き出しにしまって、再び開けた時に違ったコンテキストで使えるアレンジ力を持つ大切さを、この時期に気づかせてもらった」(虎岩氏)

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