logo

鈴木裕氏や当時の関係者やライターらが語った「バーチャファイター」の成り立ちと未来

佐藤和也 (編集部)2013年12月28日 10時00分
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 12月26日、サイバーエージェント・ベンチャーズにて「エンタテインメントの未来を考える会 黒川塾(十五)」と題したトークセッションが行われた。コラムニストの黒川文雄氏が主宰、エンターテインメントの原点を見つめなおし、ポジティブに未来を考える会となっている。

 今回のテーマは「バーチャファイター/20年後の未来」。セガの人気対戦格闘ゲームシリーズ「バーチャファイター」をテーマに語られた。

 登壇したのは、バーチャファイターの生みの親として知られ、現在はYs Net代表取締役社長を勤める鈴木裕氏、バーチャファイターシリーズのイラストを手がけたイラストレーターの寺田克也氏、アニメなどの脚本家で、最近では実写ドラマ「ノーコン・キッド ぼくらのゲーム史」の原案としても知られるストーリーライダーズ代表取締役の佐藤大氏、“新宿ジャッキー”として活躍した著名プレイヤーで、現在はセガで開発チームに所属する羽田隆之氏の4人。

左から黒川文雄氏、寺田克也氏、鈴木裕氏、佐藤大氏、羽田隆之氏
左から黒川文雄氏、寺田克也氏、鈴木裕氏、佐藤大氏、羽田隆之氏

きっかけは「バーチャレーシング」のピットクルーの動き

 バーチャファイターは1993年12月にアーケードゲームとしてリリース。まだ3Dによる人体動作の表現が難しかった時代に投じられた対戦格闘ゲームとして注目を集めた。当時は1991年にリリースされた「ストリートファイターII」(ストII)が爆発的なヒットとなり、対戦格闘ゲームのブームが起きていた。

 鈴木氏は当時の社長だった中山隼雄氏から対戦格闘ゲームの話題を多くされ、暗に制作を求められていると感じたという。一方で鈴木氏は、3DCGによるゲーム制作に意欲を持っていた。この2つが結びついたきっかけとなったのは、3Dレーシングゲーム「バーチャレーシング」だと振り返る。そのゲームのなかで、ピットレーンでタイヤ交換を行うピットクルーを3Dで表現していた。

 「当時は段ボールのような物が動いていた」(鈴木氏)というぐらいのものだったが、実際に実験してみて人間らしく動いたことからいけると感じたという。「本当はサッカーやラグビーをやりたかったけど、2体でできるものでないと処理が追いつかなかった。そこで社長に言われたことと合致したんです」(鈴木氏)

 当時は反対意見が多かったという。ストIIの人気によって類似タイトルは数多く登場したものの、どれも超えられていない状態だった。それでも3Dのものは初めてということもあり、開発費のもとぐらいは取れるだろういう判断のものでスタートした。

 2Dの対戦格闘ゲームはビジュアルは華やかで、その分デザイナーにコストがかけられていたとされるが、初代バーチャファイターのころはテクスチャーマッピングという技術がなかったため、デザイナーはほぼいない状態であり、「記憶が定かではないけど、開発人員はだいたい15人ぐらい」(鈴木氏)。開発期間はおおよそ8カ月というぐらい、実は短期間かつ低予算のプロジェクトだったことを明かした。

 もっとも短期間だったから開発が順調だったかというとそうではないと鈴木氏は振り返る。まず当時の非力な基板で3Dのキャラクターを動かすこと自体が難しく、制約の大きいなかでいかに早く処理できるプログラムを組むかという技術的なハードルがあった。キャラクターの動きについても、今でこそモーションキャプチャでデータを取る手法があり「バーチャファイター2」以降は採用されたが、初代制作時にはそれがなかったため、完全に手付け。さらに当時は初めての試みということもあってモーションデザインを専門で担当するものもいなかったという。

 鈴木氏は華やかな2D対戦格闘ゲームに対抗する上で、いかにモーションがきれいに見えてリアリティを出すかがポイントと考えていた。ただ、モーションデザインを担当するスタッフが格闘技に関しては素人であり、実際にモーションを制作させると、パンチやキックの動きも素人になってしまうという。そのため担当者を集めて、パンチやキックの練習を課して形になってから制作に入らせたと振り返る。

受けた衝撃と、伝えたいという熱量

 羽田氏は当時ゲーム雑誌編集者として、新しいジャンルのゲームが出てこない停滞感があった時期に登場したことで、衝撃を感じたという。当時はライターをしていた佐藤氏も衝撃を受けたというが、当時は紙媒体が主体であることから、動きのリアルさを写真だけでは伝えられないもどかしさがあったという。もっとも「だからこそ、ライターやプレイヤーがどうやったら伝えられるのかを真剣に考えて、熱量を持っていた感じがありました」(佐藤氏)とも振り返る。羽田氏は当時コンシューマゲーム主体のゲーム雑誌を担当していたなかでも積極的に展開。佐藤氏もライターとして特集記事を執筆するだけではなく、自らポリゴンジャンキーとよばれるクラブイベントを主催するなど、その熱量はかなりのものがあった。

 寺田氏がイラストを手がけるようになったきっかけは、当時セガの宣伝担当をしていた黒川氏の強い推薦があったからと振り返る。「バーチャファイター2」の制作時にはテクスチャーマッピングを使用するために、リアルテイストのイラストを描けるイラストレーターを探していた。鈴木氏からのオーダーはあったものの、黒川氏が「これを描けるのは寺田さんしかいない」というぐらい推したのだという。寺田氏も黒川氏に誘われて初代バーチャファイターを見たときに、人の動きをしていることに強い衝撃を受けたという。「最初は、初代の平たい感じの顔に味があると思ったので、このままでもいいんじゃないかと言いました(笑)。ただもう決まり事になっていて、他の人がやるよりは自分がやりたいと引き受けました」(寺田氏)。

 バーチャファイターの衝撃や面白さは次第に広まっていき、「2」によってさらに加速していった。殴られたり蹴られたような感覚が画面を通して伝わるもちろんリアリティのある動きだけではなく、根底にも面白さもあったという。その魅力について寺田氏は「フィギュアを触っているような感覚」、佐藤氏は「自分が学んでうまく操作できるようになる感覚がスポーツっぽい」、羽田氏は「用意されている技のコマンドを手探りで発見していく過程が楽しかった」と振り返る。

-PR-企画特集