学生時代はバンドのマネージャー。大学卒業後は大手コンサルティンググループに就職。MBA取得後、しばらく米企業に籍を置き、国内の大企業に入れば会長付でグループの戦略立案を担当した。他にもベンチャーキャピタルやベンチャー企業の役員を務めたり、さらには数々のITに関する本を出版したりとさまざまな顔を持つ本荘事務所の本荘修二さん。
今回は、そんな本荘さんの経歴や人生の分岐点について、事細かく聞いてみました。いくつかの話題に対して深掘りをしようとすれば風のようにかわす話術の本質には、あの有名マンガのキャラクターの存在が!
※こだまんが下のビデオで本企画の趣旨を説明いたします。
僕が生まれたのは、昭和39年。場所は、衆議院議員の麻生太郎さんゆかりの地であり、嘉穂劇場のある北九州は飯塚市です。39年といえば、炭坑で爆発があり、大勢の人が亡くなり炭坑が衰退した時期です。ここは、黒ダイヤ(石炭)が有名で、ある時期1番日本でお金が集まった場所で、気性が荒い人が多い場所と言えるのではないでしょうか。
その後、三井三池炭坑のお膝元である大牟田市に移りました。ここでの生活における具体的な何かがというわけではありませんが、有形無形にかかわらずさまざまな事象や環境から影響を受けたと思います。
育った環境に良いも悪いもないと思うんですよね。選択の余地はありませんでしたから。
子供の頃は、意味不明に広告紙の裏にお絵描きをしていました。小学校の低学年くらいの話ですかね。根気強く細かい絵を描いてばかりいるので、祖母には「あんたは1時間も2時間も絵ばかり描いて!」とあきれられていましたね。
学問に関しては、授業で教わる事は授業中にすべてマスターするよう努めていました。新聞もよく読んでいましたね。あるとき、新聞の野球欄をみながら、仲間内で次はどっちが勝つか負けるというのを賭けたのですが結果は僕が圧勝。そうすると、逆に自分が虚しくなって「勝ちすぎてはいけないんだ!」と思ったわけですよ。あの気づきは今も覚えていますね。
高校時代、うまくいかなくなると「本荘助けてくれないか?」と頼られることがあり、それを僕がミッションコンプリートをさせるという場面もしばしばありましたね。大人になってから跡づけした考えですが、ベンチャー界隈に軸足をおいてやっている理由の1つかなとも思います。
大学に関しては、親からは九州大学の医学部に行けと言われていましたけど、フナの解剖など嫌いでしたし、数学や物理が得意だったことから東京大学に行きたいと思うようになりました。
九州の島を初めて出たのが、大学受験の時です。飛行機に乗ったのも、この時が最初です。それまでずっと九州から出ていないわけですから、「本当に東京というのはあるのか?」というのがとても疑問でしたね。もしかしたら怪電波にあやつられているのではないかと(笑)。昭和57年2月の話です。
よくほら、田舎者が東京に来ると熱が出ると言いますが、本当に熱が出ましたね。高熱が出て、脱水症状。ご飯が食べられず、病院で点滴をうってフラフラになりながら試験を受けに行きました。
縁の下の力持ちですか?どうでしょうかね。大学の文化祭「駒場祭」の歌合戦では3年連続決勝までいきましたよ。
もちろん、ジャニーズ系ですよね。吉川晃司もありましたね。びっくりしたのは、4年になって駒場から本郷校舎に移っているのに、駒場祭実行委員会から連絡があって「今年も出てくれ」と指名されました。
それを言い出したら、大元は小学生のころですかね。ホームルームで時間があるから何かを歌えと言われた時に歌った歌が「岸壁の母」ですからね(笑)。
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