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着物姿で企業の秘孔を突くドクターに、経営者が集まる理由とは(第9回:本荘修二) - (page 2)

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「本荘君、暇にしているの?」

--大学生時代はバンドのマネ—ジャ—をやったという話を聞いていますが。

 1980年代半ばのインディーズ音楽というのは本当にアンダ—グラウンドでした。

 ある時、原宿のクロコダイルというライブハウスで先輩に合い、一緒に何かをやろうということでマネージャーやイベント制作をやり出しました。あれは大学1年の途中からでしたが、当時やっと個人用のビデオが発売されたころだったのでビデオを作ったら面白いのではないかという話が出ていました。

 それに加えて、音楽雑誌の記事や技術系の記事等も書いていました。その頃にライティングの技術を教わったのがその後の物書きの仕事で非常に役立っていますね。

 卒業が見えたころからは、某人気女性歌手の担当をやらないかという誘いがありましたが、知れば知る程、音楽業界は僕が行くところではないという気持ちが強くなっていたので、その道に行くことは辞めました。

--大学を卒業して就職をせず、研究生という扱いで1年間フリーターをやったということですが、なぜその道を選んだのですか?

本荘氏 「高校時代、うまくいかなくなると『本荘助けてくれないか?』と頼られることがあり、それを僕がミッションコンプリートをさせるという場面もしばしばありましたね。大人になってから跡づけした考えですが、ベンチャー界隈に軸足をおいてやっている理由の1つかなとも思います」

 卒業論文が大変だったので、4年の始めでマネージャー業は辞めました。東大の工学部金属工学科は非常に伝統ある学科で、日本三大発明の1つとも言われている三島磁石を発明した三島先生の研究室(当時は梅田教授)ところでしたから、かなり大変だったんですよ。

 4年生のある日、教室の黒板にいくつかの会社名が書いてあり、行きたい会社の欄に名前を書いておけということがありました。国を富ませるために、技術力を1社に集中させないように“配給する”という発想だったんですね。非常に合理的でしょ。

 では何故行かなかったか?就職について考えていたころ、ある人に「本荘君!日本にとどまっていても面白くないよ」と言われたんです。米国では工学部生がMBAなる経営修士号をガンガンとっていて、非常にバリュ—が上がっていると。では、日本の鉄鋼の会社はどうかというと、技術第1でR&Dが大切という割に社長は法学部出身。その価値を分かる人間がトップにいないという現実に違和感を覚えました。それならば、すんなり就職せずに海外へ行こうと思い、MBAを取るために願書を出してみたわけです。

--なるほど、MBAをとりにいかれた動機はそこだったんですね。しかし、MBAは職務経験が必要だったのでは?

 そうなんです。願書を出してしばらくするとニューヨーク大学から「合格だけど、職業経験が2年必要」と言い渡され、合格をまっていたら就職できないので1年間研究生として学校においてもらいました。

 このころから、伊賀か甲賀か分かりませんが忍者のようなあるコンサルタントの手伝いをし始めて、その人を通じてテクノベンチャーのアドバイザーなどをやっていた大江建先生と知り合いました。すると大江先生から「本荘君、暇にしているの?」と言われ、ペンシルバニアのイアン・マクミラン先生のところの学生がアントレプレナーのサーベイをしたいという話がありました。これがきっかけとなって、ベンチャー関連の話に詳しくなっていきました。

 また、MBAをとるために職務経験も必要だったところに、大江先生から「ボストンコンサルティンググループ」などコンサルティングの存在を教えてもらい、取り敢えず「104」で調べて「ボストンコンサルティング」とコンタクトを取り、入社試験を受けに行ったんです。すると、先方から「サマージョブに来い」と。「冗談じゃない!もしそれで、却下された場合、自分はどうなるのか?それで失職したらどのように責任とるんだ?」と問いつめたんです。そうしたら、すぐに合格通知がきました(笑)。

「本荘君、手伝ってよ」

--ボストンコンサルティングで4年半、ペンシルバニア大学ウォートンスクールで2年弱でMBAを取得した後、米国のコンピューター・サイエンス・コーポレーション(CSC)に就職をされ、1995年には帰国しCSKに入られますが、この辺りの経緯を簡単に教えてもらえますか?

 ビジネススクールを卒業してすぐに日本に帰ったのでは、米国文化や英語を忘れてしまうという思いから、米国で働くという決断をし、CSCで働きました。しかし、ビザの関係もあって1年半程で日本に戻ってきたんです。1995年の冬ですから、阪神・淡路大震災やオウム事件のあった頃ですね。

 帰国してしばらくヒューレット・パッカードに関する本を書いていると、元マッキンゼ—の中川さんから「本荘君、職が決まってないなら手伝ってよ」とCSKの経営企画室に入るという話をもらいました。経営企画室に入り1カ月くらい経ったころに、当時の副社長から「大川社長のところにいくから来て下さい」と言われまして、ついて行くと大川社長直々に「明日からここにこい!」と。

--そこではキャピタリストとして活動していたんですか?

 キャピタリストとしての活動もありましたが、つまりはその時その時、大川さんが最も関心が高いこと一切合切です。投資もありましたし、宴会のセットアップもありました。

--1995年6月から1998年6月までCSKで3年間働いた後、ジェネラル・アトランティック・パートナーズ日本支部の設立を経て、2001年にD2E2の取締役になられますが、大企業、キャピタル、ベンチャーと移って行かれたのには何か狙いがあったのでしょうか?

 1998年から元コンパックの村井勝氏と二人でジェネラルアトランティックパートナーズ日本支部を立ち上げ、初期はポートフォリオサポ—トを主なミッションとして活動しました。つまり、海外で投資した企業の日本進出のサポートという内容です。「海外から日本に」というのはしこたまやってきたので、日本の物を海外にというのをやってみたいなという気持ちはありましたよね。

 だから、D2E2が海外展開を考えているからという話を村井さんからもらった時は、海外展開ならばやりましょうということでD2E2にジェネラルアトランティックを辞めて行ったわけです。当初、D2E2米国支社長になるという話だけでしたが、言ったら話が違っていました。しかし、村井さんより「まあまあ本荘君」ということで取締役COOになってしまいました(笑)。

「本荘君、来てみないか?」

--D2E2でビジネスパートナー開発など、海外進出よりも国内でやるべきことがたくさんあったと伺いましたが、一体どこのタイミングで本荘事務所の本荘さんが登場するのでしょうか?

 2002年にD2E2を辞めてから、本荘事務所でコンサルティングをやっていました。しかし、この本荘事務所の歴史は古く、フリーターの時代(1986年)からあったんですよ。いろいろと仕事をするのに、名刺がないと何かと大変でしょ。だから、本荘事務所は、その時その時で業務内容が変わって行くのです。

 本荘事務所でコンサルティングをやっていたときに早稲田大学大学院 アジア太平洋研究科の大江先生から「本荘君、ドクターコースを新しく作るから来てみないか」といわれました。ではと、試しに受けに行っていたら、これが受かっちゃいまして(笑)。2003年4月から2006年9月の間、ドクターコースに入ってしまったわけです。

--つまり本荘事務所と平行して学生でもあったんですね?

 その通り!大企業のコンサルも忙しくやっていましたよ。時々ベンチャーもやりました。

--そういう方々から相談や話がくること自体が凄いことだと思いますが。

 高校時代もそうだし、インディーズのバンドが僕に頼ってきたのも同じで、精神安定剤みたいなもんじゃないですかね?

--その後、2004年に再びジェネラル・アトランティック・パートナーズに戻る訳ですね?

 これは、あるとき村井さんから電話がかかってきて、「本荘君、今何しているの?1月から戻ってきなさい」という命令で戻りました。それが結構重かった。98年の頃と同様にポ—トフォリオサポ—トをやりながら投資案件を扱い、一方でドクターコースの論文もありましたからね。婚期が伸びた原因の1つだと思います(笑)。

--『大企業のウェブはなぜつまらないのか』(ダイヤモンド社)という本が2007年2月に発売されましたが、このような切り口から書こうと思われた理由はなんだったのでしょうか?

 大会社のアドバイザ—などをやっていた時に、経営層とディスカッションすることが多々あって、ウェブに対する考え方がひどいということが分かりました。一方でXSHIBUYA(クロスシブヤ)やウェブのコミュニティなどもやっていたので、クリエイタ—と大企業の間に大きな断層があると強く思うところがあって出版しました。

「本荘君。今日暇?」

--今話題に出てきました、2005年からやっているXSHIBUYAについて教えて下さい。

 これは2005年夏からの東京商工会議所主催の研究会で生まれたもので、ngi groupの小池聡さんから初夏に「本荘君。今日暇?」と電話がかかってきました。色々と会話をした後に、「あとよろしく」と(笑)。

 ITテクノロジーとクリエイターのマッチングが研究のテ—マだったので、結局は真面目に取組んでいましたね。報告書で終わらせずLLP(有限責任事業組合)を作ってみようということになり実行しました。ドクタ—の論文が遅れたのには、このXSHIBUYAも影響していますね。

 でも、インディーズバンドのマネージャーをやっている時とやることはあまり変わってないんですよ。この業界は人材が豊富だから、仕掛けるという観点では面白いですよね。転職はたくさんしているけど、やっていることはぶれていないんですよ。

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