デジタルとアナログの緩やかな融合を--中野発「デジクマさん」の軌跡(第8回:南一哉) - (page 2)

コンピュータの必要性にボルネオ島で出会う

--デジタルガジェット大好き少年というイメージが強かったのですが、カメラにどっぷりではなくて色々な物に視野を広げていたわけですね。さて、大学を卒業して総合商社の三菱商事に入られるのですが、何かこれといった明確な目標があったんでしょうか?

 文系で入社するとスペシャリティがないので、必ずしも希望の部署に行けるわけではなく、その年その年でニーズがあるところに配属されます。私は資源系のグループの営業部に入りました。今から思えば、コンピュータ・ネットワークの必要性を強く感じたのがこの頃ですね。

--ここでこれまでよりもさらに深くコンピュータと強く結びついてくるわけですね。では、一体どんな体験があったのでしょうか?

 入社3年目(1989年)にマレーシアのボルネオ島への駐在を命じられました。その時に、駐在の道具として持っていったのが当時は最新型だったノートブックPCとモデム、そしてニフティサーブの会員登録です。

 当時は国際放送もインターネットもないので、情報を得るのは海外の短波ラジオとテレックスだけ。リアルな世界で情報に飢えていましたが、ニフティサーブ上にはさまざまな情報があって、パソコン通信って本当に凄いなと感じました。私にとっては情報のライフラインでした。

 ライフラインと言えば、もう一つは携帯電話ですね。当時は車載電話といわれていましたが。仕事の都合で四輪駆動で単独で山の奥深くに入って行くことも多かったんです。ですから、無線でつながる電話がなければ命に関わるんですよ。現場での状況を伝えるべく東京の本社と連絡とるためにも必要不可欠でした。

 その頃から、PCネットワークや携帯電話が今後凄い事になるという思いがさらに強くなりましたね。

--ボルネオ島は観光で有名な場所ですよね。そこでネットや携帯の重要性に気づきながら、悶々としていたのですか?

南氏 「情報通信の世界は毎年スペックが上がっていき、しかも値段は下がって行きますよね。商社のように間で商品を取り扱う仲介事業者は、何らかの付加価値を付けないといけないんですよ」

 日本に戻って来た1990年代初頭は、商社内でも情報産業グループが大きくなっていて、私にとってはまた違う人生が始まったんです。私が資源系の部から大きく仕事を変えられたのも、時流のお陰かもしれません。

 情報産業グループの企画セクションに配属となり「グループ全体の新しい事業の方向性」と「グループ投資先企業を見る」ことがミッションでした。その活動の一つとして、米レジス・マッケンナ社(IT マーケティング・コンサルティング専門会社)を日本に持って来るというプロジェクトに参画しました。

 新しい技術をどのように商品に仕上げたら売れるようになるかというコンサルティングをする。この会社の元々のクライアントが創業間もない頃のアップルやインテルで、今では著名なこれら IT 企業の初期からのマーケティング戦略立案に携わったブティック・コンサルティング会社のサービスを、日本市場に持ってくるというプロジェクトに参加できたんです。

 日本市場導入にあたっては、レジス・マッケンナ社自身のブランド・マーケティングをすることと、契約した日本国内クライアントの実際のコンサルティング業務の両方を手掛けなければならず、三菱商事ではなくレジス・マッケンナ社アソシエイトの南、として活動していました。

--それまで扱って来た原材料と違ってコンサルティングは形のないサービスビジネスですよね。新しい仕事をどのように自分なりに飲み込んだのでしょうか?

 正直、モノを扱うビジネスには限界を感じていて、先程の中古カメラと似ていますが、情報通信の世界は毎年スペックが上がっていき、しかも値段は下がって行きますよね。商社のように間で商品を取り扱う仲介事業者は、何らかの付加価値を付けないといけないんですよ。その意味で、コンサルティングが商社の中の事業R&Dという面でも非常に重要だと思いましたから、ポジティブにとらえていました。

 また、我々日本のメンバーでレジス・マッケンナ氏著作の『ザ・マーケティング』(ダイヤモンド社)を翻訳して出版しました。翻訳しながら我々も学ぶところが多くて、「ホール・プロダクト」という考え方はとても参考になりました。

 これは製品を構成する要素である、会社/サポート/ブランディング/メディア/ユーザーといったパーツの中で、どこかに足りないパーツがあり、それをどのように埋めて行くかというコンセプトなのですが、シンプルで素晴らしい考え方だと思っています。

 さらにもう一つは、当時はレジス・マッケンナ社のトップ・コンサルタントの一人だったジェフリー・ムーア氏とともに、同氏著作の「キャズム」のコンセプトをもってさまざまなクライアントを回ってコンサルティング・サービスをご提供する、という良い経験もしました。私のポジションはコンサルのアソシエイトではありましたが、色々と学ぶことは多かったですね。

--その後は投資事業をされたということですが、海外で投資をするということに関してはどう思われましたか?

 レジス・マッケンナ社は米国カリフォルニア州パロアルトに本社がありましたから、1996年くらいまではしばしば、東京からシリコンバレーに出張して仕事をしていました。プロジェクトを通じて何となくサンフランシスコ・ベイエリアのベンチャー文化を分かり始めた頃で、マッケンナプロジェクトを終了した後は、米国に長期出張をしながらベンチャー投資先を探すというのが新たなミッションでした。

 Googleが登場する前の話です。

--米国での当時の状況はどうだったんでしょうか?また投資先を探すにあたっての思い出深いエピソードなどありますか?

 インターネットが急速に成長して来た頃で、商用ISP(インターネット・サービス・プロバイダ)が複数登場してきました。その一つに投資するかしないかという頃に、デジタルガレージの共同設立者でネオテニー創業者の伊藤穰一氏と知り合いました。結局、そのISPには投資はしませんでしたが、Joi(伊藤氏の愛称)とはそれから随分と近しい関係になりましたね。

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