先に「音楽はそれを聴いていた時の状況を想起させる」と書いた。少なくとも私にとって、音楽とはそういった性質を持つものだと思う。キエルケゴールの小説の主人公が、紅茶に浸したマドレーヌから過去に想いを巡らすように、私はさまざまな音楽から何年も前にあったいろいろな出来事を思い出す。たとえば、ジョージ・ベンソンの「マスカレード」から、霧雨の漂う6月の晩の古川橋あたりの空気を思い出したり、ジュリア・フォーダムの「ハッピー・エバー・アフター」から、真夏の日の曇り空の下で佇んでいた神戸のメリケンパークの湿度を思い出したり、あるいはローラ・ニーロの「ウェディング・ベル・ブルース」から、はじめて踏みしめたサンフランシスコの荒れたコンクリートの硬さを思い出したりして、毎日を暮らしている。
そんな自分の音楽ライブラリをふと見てみれば、すでに30数ギガバイトを超えている。音楽の分量を、CDの枚数ではなく、データの容量で計るようになったことにも、思わず隔世の感を抱いてしまう。それが全部この小さなガジェットに入ってしまうとなれば、これはもうタイムマシンというしかない。それも、自分が実際に生きていた時だけでなく、たとえばガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」を聴きながら、ローリング20’sのニューヨークに想いをはせることで、どこにいてもその風景を仮想的に経験できる(ちょっと大げさな喩えだが)。
それでちょっと思い出したのだが、20代の初め頃、夏休みになるとよく御前崎(静岡)のほうのビーチに出かけていた。その頃ずうっと聴いていたもののなかに、デビューしたてのホイットニー・ヒューストンのアルバムがあった。そんなせいもあって、いまだに初期の頃の彼女の歌声を聞くと、沈みかけた夕陽に浮かび上がる駿河湾越しに見た伊豆半島の稜線の絵が思い浮かぶ。この時使っていたのが確か防水仕様のウォークマンで、シャツのポケットはおろか冬物のヘリンボーンコートのポケットにも入らないような大きさの代物だったが、それでも当時の私にはなくてはならないものだった。その大きな本体のほかに何本ものカセットテープを持ち歩いていたことなど、いまとなっては到底信じられない。しかも、あのカセットプレイヤーが当時3万3000円もしていたというから、つくづく技術の進化の物凄さを感じずにはいられない。
話がだいぶ脇道にそれた。
小林秀雄や友人の青山二郎らの下でシゴかれた白州正子の随筆によると、小林は一時期どっぷりとのめり込んだ骨董について、「(骨董は)買ってみなくては解らない」と教えたという。意味深長な<美しさ>を云々するのではなく、きっぱりとそれに「値段を付ける」という行為を通してこそ、本当に対象の真価がわかる。新しいiPodがどれほどの美しさを持つ<花>なのか(あるいは、そうした何かには程遠い代物なのか)。それを知るための一番の近道は、やはり自分で買ってみることなのかもしれない。無論、滅多なことでは手の出せない骨董と、半年もすれば新しいモノが出てくるマスプロダクトを比べるつもりはない。だが、iPodの場合は比較的気軽に手が出せそうな金額であり、真剣勝負で値踏みする必要などどこにもない。そうしたことも合わせ、このiPodは、久しく音楽になど触れていなかった年配の諸氏などには、うってつけの「(自分への)クリスマスプレゼント」になるかと思う。すでにいずれかの旧モデルを所有しているユーザーも含め、購入──すくなくともその検討をおすすめする。
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