インターネット上、特にブログは、当然ながらネットの中立性をめぐるこの一連の議論であふれかえっている。「ネット中立性(Net neutrality)」という言葉をGoogleで検索すると、2100万件もヒットする。検索要求に「ブログ(blog)」を追加しても、600万件近くが抽出される。
この騒ぎを見ながら残念に思うのは、知識不足で誤解を招くような内容の議論が大半を占めていることだ。このコラムで前にも触れたことがあるが、ブロードバンドサービスプロバイダーに対して、ネット中立性支持派が主張しているような広い範囲に及ぶ規制を課すのは、結局は利用者が不利益を被ることになるため決して良い考えではない。ブロードバンドプロバイダーは単なるパイプを提供しているだけであって、彼らのネットワーク設備を利用するアプリケーションおよびコンテンツをすべて平等に扱う必要があると規定して、ブロードバンドプロバイダーを完全に中立化してしまうことは、実はインターネットの増殖力を奪うことになる。
問題の核心は単純だ。説明しよう。
ブロードバンドインターネットのサービスプロバイダーは、20世紀に、AT&Tとその子会社を特徴づけていたような、公共事業に対する規制の対象にはなっていない。電話会社は従来のコモンキャリアに分類されるため、料金やサービス利用規約は連邦通信委員会(FCC)によって規制されていた。電話サービス会社間の競争などなきに等しかったナローバンド時代は、この体制で問題はなかった。
しかし、ブロードバンド時代のインターネットプロバイダー市場では事情が大きく異なる。FCCがブロードバンド市場は十分に競争的な市場であり公共事業型の規制の対象にするべきではないと決定してから4年が経過している。こうした決定があるにもかかわらず、ネット中立性支持派たちは現在のインターネットを守るためにネットの中立性を維持する規制を課す必要があるというスローガンを掲げている。これではユーザーに誤った認識を与えることになる。現在、こうした規制は設けられていないが、インターネット上で利用可能なサービスとアプリケーションの数と多様性は指数関数的に増大し続けている。つまり、われわれが知っているインターネットは(ネット中立性など課さなくても)十分に維持されているのである。
実際、ほとんどの人が見過ごしているのだが、ちょうど10年前の1996年に制定されたTelecommunications Actで、議会は次のように明言している。「インターネットおよびその他の対話型コンピュータサービスにおいて、連邦政府や州の規制を受けない、現在の活気のある競争的な自由市場を維持することが米国の政策である」
FCCと議会がこの法律を制定した当時よりも現在のブロードバンドプロバイダーの市場のほうが競争が激化していることは疑いようがない。もちろん、大学の経済学基礎講義の教科書で教えられている小麦市場のような、古典的な完全自由競争が実現されているわけではない。そんな市場はほとんど存在しない。ましてや、数十億ドル規模の巨額なインフラ投資を必要とするネットワーク産業において、そのような完全自由市場はありえない。現時点では、ケーブル会社と電話会社が依然として市場を独占的に支配している。しかし、無線や衛星によるブロードバンドプロバイダーも競争力を強めつつある。さらには電力会社も既に電力線によるブロードバンド配信のテストを始めており、現状をひそかに観察しながら市場に競争的圧力をかけている。
このように競争が激化し技術的にもダイナミックに変化している市場において、Google、Yahoo、Microsoftといったネット大手企業が、インフラ所有企業に対して、厳格な機会均等と料金規制を課すことを申請するのは見当違いもはなはだしい。ほとんどの提案は、利用者による合法サイトへのアクセスを「遮断したり、妨害したり、通信の質を低下させたりする」ような一切の行為をネットワーク事業者が行うことを禁止するという内容だ。しかし、今日、利用者がWebサイトへのアクセスをブロックされたとして苦情を言っているという事例は存在しないし、サービスプロバイダーが合法サイトへのアクセスをブロックするようなことは想像しがたい。そんなことをしたら、即座に市場からの反発に遭うだろう。
「妨害」および「品質低下」の禁止に関しては、こうした方法で禁止が義務づけられると2つの重大な問題が生じる。第一に、こうした本質的にあいまいな言葉の意味をめぐって訴訟がて長期化し費用もかさむことになる。法令違反であるとされる無数の事例に対して、サービスプロバイダー側も何とか規制にパスしようとサービスを修正するため、裁決、再裁決が繰り返されるからである。第二に、こちらのほうが根本的な問題だが、ネットワーク設備の所有者はすべてのアプリケーションやコンテンツのプロバイダーを均等に、つまり中立的に扱わなければならないという概念は、われわれが望む競争市場のあり方と基本的に矛盾する。新しい製品やサービスに対する消費者の評価は、市場における差別化の試行錯誤のプロセスを通して形成されてゆくものである。差別化する自由を奪ってしまうと、有効な競争の基盤が損なわれてしまう。
それに、厳格なネットワーク中立性を強制することは、動画やゲームのダウンロードなど、帯域幅を大量に消費する行為をサポートするために必要なインフラ投資の増大を賄うための経済的負担を、一般のインターネットユーザーが「均等に」負わなければならないことを意味する。これは、言ってみれば、高トラフィック、高性能のアプリケーションをサポートするために必要なインフラ投資を増大させる原因になっているGoogleやYahooなどのサイトを助成するために、あまり帯域幅を消費していないユーザーに対して遡及課税するようなものだ。
ネット中立性を強制的に実施すると、実は、継続的な訴訟によって先行きの不透明感が増大し費用がかさむと同時に、ネットワーク事業者が自社サービスの差別化によって需要を喚起するようなビジネスを展開できなくなるため、インターネットの技術革新が抑圧され、投資も減少することになる。つまり、ネット中立性は実現しても、同時にネットは去勢されたも同然となり自己増殖力を失うのである。
その意味で、今後の議論では、「ネット去勢(Net Neut*)」という言葉を使うことを提案したい。そうすれば、「中立性」という言葉の表面的な意味だけが一人歩きし、今後のインターネットの継続的な発展を阻害することになる新しい規制的な体制の実現へ向かって事態が進行するようなことは少なくともなくなるだろう。
著者紹介
Randolph J. May
メリーランド州のシンクタンクFree State Foundationの会長。ワシントンD.C.にあるProgress & Freedom Foundationの上級フェローを務めた経験もある。この記事の内容は氏の個人的な見解であり、氏の現職および前職とは一切関係ない。
CNET Japanの記事を毎朝メールでまとめ読み(無料)
ものづくりの革新と社会課題の解決
ニコンが描く「人と機械が共創する社会」
ZDNET×マイクロソフトが贈る特別企画
今、必要な戦略的セキュリティとガバナンス