コンテンツ国家戦略にも優先順位を - (page 2)

いろいろなものの「不在」の中で

 前回、日本のアニメーション業界においてゆっくりながらも導入されているITツールのほとんどが米国製であり、今後長期的に見ると日本製ツールの「不在」が構造的な劣勢を招く可能性が高いことを指摘した。さらに付け加えれば、日本のコンテンツ産業に「不在」なものは必ずしも情報テクノロジー絡みのものばかりではない。ただし、ファイナンシャルテクノロジーやらマーケティングテクノロジーといった高度なビジネスツールの「不在」を嘆くつもりもない。もちろん、それらが十分間に合っていますよ、というほど裕福な状況にあるわけでもないのだが。

 実際には、前述のように、テクノロジーとして資金調達に必要な各種スキームは確実に整備されてきており、資金調達のためのコストや実際の運用手段といった点での課題はいくつかあるものの、それらは具体的な利用が促進されることで解決することが多いのではないかと考えている。

 むしろ、問題なのはそれらテクノロジーを利用しようとする「動機」の不在や、それらの採用価値を実質的に無効化してしまう「意思」の不在ではないかと考えるのだ。具体的には、「わざわざそんなご立派なテクノロジーを使わなくとも、現在のコンテンツ産業は国内市場の既存の流通経路を維持するだけで十二分に食べていける」という認識が非常に根深くあるということだ。

 実際には、コンテンツ関連産業の中で裕福な人たちは、地上波テレビ局や代理店、大手制作会社や映画配給会社などの正社員などごく限られた人たちだけであり、それ以外は「好きだから、貧乏でもやっていける」という善意によってのみ成立しているという、きわめて脆弱かつ不安定な構造にあるのだ。これは、前回も掲げたように、日本のアニメスタジオ労働者の平均年収が273万円という現実に如実に現れている。

 この不平等を前にしても、これまでずっとやってきたことと違うことをあえてする必要はないという思考の慣性のほうが大きいのだ(といっても、戦後60年のうちテレビなど圧倒的な勢力を有する放送メディアが産業構造として確固としたものになったのは、後半のここ30年くらいではなかろうか)。集団的な一種の思考停止であり、学習的無気力といってもいいだろう。もしくは、一度でも新しいことを試そうとすれば、「二度と仕事を回さない」という脅しによって既存のレールから追い出されてしまう、という恐怖からかもしれない。

 これらは、外的な環境から隔絶され、その業界内部ではミクロレベルでの緩やかな競争があったとしても基本的には箱庭の中に最適化した形で生き残ってきた生態系特有の脆弱さからくる反応でしかない。これをかつての金融機関のような「護送船団」とまで言う気はしない。だが、コンテンツ業界の既存のモデルがたどる運命は同様のものに違いない。

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