この記事はJohn Milanが執筆した。これは2回連続記事の前編となる。後編はこちら。
明日のソフトウェアソリューションはどんな姿をしているのだろうか。それは、次の4つの要素で構成されるだろう。インターネット、オープンソース、モバイルデバイス、そしてWeb 2.0だ。ここで、各要素のメリットについてそれぞれ議論することはできるが、むしろ全体として見たとき、明日のアプリケーションがどうなるかということについて、どのような青写真が作れるかが問題だ。
最近の投稿でわたしはIT産業における進化や地球温暖化を取り上げてきたが、今回は「突然変異」という対極的な話題が意味するものを考えてみよう。古くからあるソフトウェア界のリヴァイアサンたちは、次世代のソリューションを生み出そうと必死だ。これまで、大きさとスケールは企業にとって有利に働いてきたが、4つの大きな要素が、後戻りのできない一連の変化を引き起こしている。ソフトウェアが備えるべき性質を変えているのだ。この新しい環境では、再び俊敏性が必要とされるようになる。大きさは不利に働くようになってくるかもしれない。まさに、柔和な者たちが大地を受け継ぐ機会を得たのだ。
インターネットは、無数の可能性を解き放つ隕石の衝突だった。オープンソースは新鮮な空気。モバイルデバイスはデスクトップからの大移動を引き起こした。Web 2.0は全てをより人間に近いレベルに引き上げた。それぞれの要素のメリットについて語ることもできる。インターネットは地殻変動のような出来事であり、Web 2.0は気候の変化のようなものだ。しかし、それらが一体となって描かれる、未来のアプリケーションの全体像に考えを向けてみよう。
インターネットはわれわれの日常生活にどこまで入り込んでいるだろうか。以前は、親戚が「コンピュータに詳しい人」であるわたしに「Microsoft Word」の使い方をたずねてきたものだ。今では彼らは自分のコンピュータをオンラインで購入し、自分でブロードバンド環境に接続している。家族をサポートするというわたしの役割はなくなってしまった。
いまや誰もがインターネットの美点を知っているし、現在のところインターネットは賞賛の対象だ。ブロードバンド接続も一般的になり、インターネットはユビキタスかつ頼れるものであり、もっと重要なことに、当たり前のものになったと言えるだろう。全ての家庭に信頼できる形で電気が来るまでには、長い時間がかかった。スイッチを付ければ明かりがつく、ということが珍しくなくなるまでにも、またしばらく時間がかかった。壁から電源が取れることが当たり前になって初めて、われわれはラジオやテレビのような「いいもの」を手に入れることができるようになったし、冷蔵庫や掃除機、洗濯機といった日常生活で不可欠なものが現れ始めた。
インターネット網が張りめぐらされてウェブサイトの珍しさも消え、今ではわれわれは「iTunes」や「YouTube」を楽しむようになっている。そろそろ、不可欠なものが出てくる時期だ。掃除機がインターネット対応になると何がうれしいのか、それはどんなものなのかを具体的にイメージするにはもう少し時間がかかるだろうが、それがオンラインでつながることだけは確かだ。
MSDNの巨大なパッケージが3カ月ごとにオフィスにやってくるのを除くと、わたしは最後に箱に入ったソフトウェアを買ったのがいつだったのかを思い出せない。わたしが「iPod」を使い始めてからしばらく経つが、CDは埃をかぶるようになり、わたしが最後にCDを買った店はもうなくなっている。わたしの会社はソフトウェア製品を作っているが、パッケージングする手間をかけることすらしない。少なくとも、木材が必要なパッケージングはしていない。
すべてがオンラインになってしまったのだ。明日突然インターネットが使えなくなり、1カ月ほど、あるいは物理的なメディアの重要性が再認識されるほど長い期間その状態が続いたら、わたしの会社は倒産するだろう。インターネットを失うことについてRead/WriteWebで取り上げるのは望ましくないはずだ。実際、競合他社がわが社をつぶしたければ、まずインターネットを止めるべきかもしれない。
ポイントは、事業がインターネットに依存していたのは、以前はウェブアプリケーションの分野だけだったということだ。今ではインターネットは電気と同様の重要性を持っている。以前は物理メディアに依存していた組織(出版社やソフトウェアハウス)や、リアルとオンラインの世界を組み合わせていた組織が、オンラインのみの活動へ移り変わりつつある。印刷機に何百万ドルもの投資をしている新聞社の変化は比較的限定されるだろう。しかし、ブログをやったり、ソフトウェアを書いたり、医者の指示を記述したり、音楽を作ったり、映画を製作したりという仕事であれば、太いネットワークのパイプさえあれば製品を届けることができる。
ユビキタス性、信頼性、アクセシビリティがそろった。次に必要なのは哲学だ。
オープンソースといえばまず思いつくのは、Linux、パブリックドメインのコード、そして若い理想主義者のことだ。世界的な巨大ソフトウェア企業の競合相手である草の根活動は非常に魅力的だ。アルゴリズムから知的所有権の衣を取り去り、公開するのは、勇気の要ることだ。そして、若い理想主義者を好ましく思わない人などいるだろうか。しかし、オープンソース哲学が実行されているにも関わらず、神託はまだ実現されていない。実際、若くてけちな人間には心がないし、古い理想主義者には頭脳がない。オープンソースのコードに対して法的な根拠を与えるのはよいが、オープンソースの原則をデータに適用することの方が実は大事なのだ。
実際、もし選択肢があれば、わたしはコードよりもむしろデータをオープンにし、アクセス可能にするべきだといいたい。コードは書き直したり何度も再編成したりすることが可能だし、そうするべきであることも多い。しかし、システムはデータの折り合いがつかなければ動かない。われわれの生活とデバイスの結びつきが深くなるにつれて、わたしのカレンダーのスケジュール情報を読むコードが非公開のものであるかオープンであるか、サーバがMicrosoftのものかApacheか、表示に.NETを使っているかX.orgを使っているかなどといったことは重要ではなくなる。問題なのは、わたしのスケジュール情報が(例えば)iCalendarフォーマットに準拠しているかどうかだ。データの重要性が明らかになるにつれて、アプリケーションの生い立ちや、独占技術かオープンソースかといった問題は小さなものになる。
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