地域の魅力を体感する醍醐味(3)--“日常”の記録と継承

都市圏に押し寄せる過疎

 戦後の高度成長期に、都市部では2次産業や3次産業など新たな産業が成立して行き、それに併せて多くの人々が、地方から都市部に移動して行った。集団就職を代表とするそうした傾向は民族大移動とも呼ばれており、三大都市圏においては転入超過が大きな数となった。その結果として、都市の過密と地方の過疎といった不均衡が顕在化したため、高度成長期の半ば以降には、何らかの社会的な対策が必要とされた。

 そうした状況を受けて、特に「人口の著しい減少により活力が低下した地域社会の地域の持続的発展を図る」といった意図で、議員立法として「過疎地域対策緊急措置法」が成立し、昭和45年(1970年)4月24日に施行された。以降、5回に渡り過疎地域関係法規は改廃され、現在は令和3年(2021年)4月1日施行の「過疎地域の持続的発展の支援に関する特別措置法」が適用されている。通称過疎法と呼ばれるが、その規定の元に、新たに過疎地域が指定され、過疎対策事業債(通称は過疎債)など政府による自治体への財政が支援されている。現在、自治体の全域または一部が過疎地域に指定されているのは885市町村で、全国1718の市町村の51.5%にあたる。この国の半分が過疎という状況に陥っているわけだ。

 筆者の前職の職場であるフェリス女学院大学は、神奈川県横浜市に所在するが、神奈川県には長く過疎自治体は存在しなかった。しかし平成29年(2017年)4月1日に県西部の真鶴町が過疎地域指定されることになった。筆者は丁度、新たにPBL(プロジェクト学習)形式の演習授業を担当することとなり、真鶴町を題材とした授業を開講することとした。

 筆者は都市計画や建築など、地域を対象とした研究を専攻しているわけではない。あくまで現代社会における課題の一つとして、地方を捉えているのであり、例えば国勢調査のデータを用いた、人口コーホート分析手法などを用いて地域の推移を理解したり、現地調査をしたりして、あるがままの姿を理解したいと考えているのである。

 真鶴町に関しては、バブル期に各地で起こったリゾート開発ブームに抗うような条例として、現在ではその意義が深く知られている「美の基準」に着目した。我が国では戦後の高度成長期が終焉し、1980年代半ばからバブル経済と呼ばれる状況に陥った。土地の高騰に併せて各地で様々な開発が進んだが、首都圏以外ではリゾート開発が広く行われるようになった。その背景として、1987年6月に公布施行された「総合保養地域整備法」、通称リゾート法の存在がある。この法律は、人々が余暇を利用して滞在しつつスポーツやレクリエーションなどの様々な活動のための施設・地域の整備を、民間事業者の活用に重点をおいて総合的に整備することを目指して制定された法律だ。これらを大きなトリガーとして、過疎が進む地方に、ホテルやマンション、さらにはリゾート開発の波が押し寄せていったのだ。

 前述のように真鶴町は、首都圏から適度な距離感のある地域であり、そのために熱海から湯河原など西湘地区と共に、広くデベロッパーによる開発が進んでいった。そうした状況に対して、1989年6月に真鶴町議会は、宅地開発等指導要綱を改正し、リゾートマンション建設凍結宣言を決議している。その背景には、町内に水源が無いといった地域が抱える根本的な問題もあり、大型の共同住宅や宿泊施設には新たな給水をぜず、地下水を採取する施設の設置には町長の許可を必要とするように規程を改めている。そして1993年6月には、町内の建物の建設に纏わる設計基準として、件の条例「美の基準」が議会で可決されている。

 そこから10年以上の時間を経て、過疎指定がなされた真鶴町の概況はどうなっているのか、特に住民の視点からそうした条例や政策の意義や価値などを調査し研究するという意図で、PBL形式の授業を開講した。なお、「総合保養地域整備法」に関しては、バブル崩壊以降に悪法という評価がなされており、実質的に廃止されていると言っていい状況にある。2004年2月に国は基本方針を変更し、各自治体に対して政策評価した上で基本構想の抜本的な見直しを求めており、その結果として構想を廃止する傾向が強まっている。

写真1

 写真に示すのは、その授業の模様である。隔年開講であったため、2期ほど真鶴町を学ぶことになった。こうした社会連携型のPBLで取り上げた題材に関しては、学びが進むにつれて学習者である学生がその対象に対するエンゲージメントを高めている傾向にあるということが興味深い点であった。授業を履修した多くの学生が真鶴町のファンとなり、授業後も観光のために訪れる学生が複数いるのも事実だ。その他にも直近の例ではあるが、卒業研究で真鶴に訪れた美術工芸を専攻する学生が、卒業後真鶴町に移住して地元の石材業に就職したという事例もあることを付記する。

80キロ圏近郊都市

 2期ほど真鶴町を題材に社会連携での学びを実施したが、特に学生から真鶴以外にも地域固有の事情を元に「様々な活性化策を試みている地域があるのではないか」という意見が上がって来た。実は真鶴町が過疎指定された平成29年(2017年)には、同じように首都圏から非常に近い場所にある他の自治体も過疎指定されている。そのうちの一つが、茨城県利根町である。総務省による旧都庁からの距離を示す図に加筆したものを示すが、利根町は茨城県の最南部に位置し、千葉県と隣接した地域であり、距離としては40キロメートル程度、真鶴町よりも遥かに都市圏に近い地域である。現状では、東京に最も近い過疎地で学生曰く、「会いに行ける過疎」という場所だ。

写真2

 本授業の3期目には、利根町と真鶴町を比較しながら、近郊にある自治体の事情に関して俎上に上げたいと考えた。特に3期目の授業では多くの履修者がいたため、東京から南の真鶴町、北に利根町に併せて、西部、東部でも同等の自治体を取り上げて、授業を展開しようと試みた。

 いろいろな自治体に直接連絡して授業への協力依頼をしたが、端的に言って余りいい反応は得られなかった。回答すらもらえなかった自治体もいくつかある。幸い、埼玉県横瀬町が「過疎地ではないが」という条件で協力をしてくれることになった。また東部地方に関しては、筆者の知己を辿り、千葉県市原市を題材にすることを快諾いただくこととなった。言うまでもなく、千葉県市原市は人口26万を超える大都市である。

 しかし昭和42年(1967年)に併合している同市南部にある旧賀茂村地域は、合併時には1万人ほどの人口を抱える地域であり、その地域のみで見れば、人口減少や高齢化など、過疎地としての条件を満たす地域でもある。実際に平成の大合併では多くの過疎自治体が吸収され、地名が消えている。そうした地域が、その後どういった結果となっているのかも興味深い研究内容であり、本授業での課題地域とさせてもらうこととなった。

 最終的には、茨城県北相馬郡利根町(南茨城エリア)や埼玉県秩父郡横瀬町(埼玉東部エリア)、神奈川県足柄下郡真鶴町(湘南西湘エリア)、そして千葉県市原市(上総エリア)という、図に示した4地域を対象にした。履修時のアンケートによれば、都市部の学生には、余り知られていない地域でもある。このように首都圏から最長で80キロ以内の地域を、様々なデータを用いて分析し、その比較をしていくといった内容の授業として開講することになった。

 この4地域を典型とするが、これらの地域は、公共交通機関を用いて、概ね東京まで1時間強の距離である。すなわち通勤圏でもあるため、地域住民には2次、3次産業の従事者が数多くいる。元々、1次産業を中心とした地場産業があり、端的に言えば複合経済の地域でもあるという特徴を持っている。利根町は利根川流域の肥沃な土地を利用した農業が中心であり、さらに昭和40年(1965年)代にはニュータウンの開発も盛んだった。横瀬町には、武甲山から産出される石灰石の他に、果樹園や養蚕などの地場産業がある。そして市原市は工業都市ではあるが、小湊鉄道で下った加茂地区は元々稲作を中心とした農業地域であり、最近では観光にも力を入れている。都会でも地方でもない、その中間領域、いわば汽水域ともいえる個性豊かなそれらの地域を、本授業では近郊都市と呼ぶことにした。

 授業では地域ごとに学生チームを組み、各自治体からのゲストスピーチを元に、政策の理解やデータ分析などをリサーチし、さらに現地調査をして各地域の特性や課題などを明らかにしていった。特に各自治体に対して、学びの成果報告として、各チームに個々の地域のプロモーション映像を作成してもらうといった課題を設定した。

 授業の最終日には各地域から最も近い場所ということで、東京駅の近くのスペースで自治体の方々を呼び、学生による報告会を実施した。おそらく各自治体の担当者も、相互に各地域を分析する機会は初めてだったと思われる。思った以上に盛況に終わり、こうした複数地域に渡る課題学習の可能性を感じることとなった。

写真3

「人がいて町となる」日常を知ることの価値

 前述の連携授業の過程で現地調査にあたり、各自治体には一点だけ依頼をしたことがあった。自治体の方に地域の案内を依頼すると、観光名所や旧跡、さらには地域の施設、設備の紹介で終始するケースが多い。しかし我々の目的は観光ではなく、地域を理解することにある。特定の地域を考えるには、その住民を抜きに考えることはできないだろう。そのため人口データを重視しているのではあるが、さらに直接住民の方にその地域のこと、すなわち歴史でも暮らしでも日常のことを語ってもらうことを意図した。

 実際に、祭りのようなことは数日しかないにも関わらずに数多くの資料があるが、日常生活のことは外部の人間にはなかなかわからないというのが正直なところだろう。こうした前提で、授業ではその地域を知るために地域のシニアに対すてインタビューした。それらの方々と大学生が対話しつつ、シニアのオーラルヒストリーを通して、その地域の姿を明らかにすることをもくろんだのである。各自治体には2名ほど、できれば戦前生まれで、その地域のことを体験として知ってる方をという条件で、その地域の高齢者の方を紹介していただくことをお願いした。

 実は各自治体がどういう方を選ぶかが、その町を表す重要なキーになると考えていた。予想通り見事なくらいに、その町を象徴するような人選になった。横瀬町は、果樹園経営者、元養蚕業から弱電業会社員、利根町は、元大企業会社員、行商人、真鶴町は、家業が漁業で流通業に携わってきた方と農園経営者の方、そして市原市は、家業が農業で教員だった方という、その地域の特徴を見事に示す人々になったのである。

 我々が聞きたかったのは、シニアの自分語りだった。なぜなら、長く生きてきた方の人生は、そのまま地域や時代の歴史にもなっているからである。最年長90歳の利根町の行商人の方が語る商売のことや家のことは、そのまま素晴らしい戦後史になっていた。

写真4

 紹介してもらった、最高齢90歳から69歳(当時)まで、延べ7名の「その町のことをよく知っているシニアの方」のライフステージを図に整理する。昭和2桁生まれのこれらの方々は、ライフステージがそのまま日本の高度成長期と重なっているのである。おそらく人々の小さな物語は、集まることで大きな時代と地域の記録、物語になっているのではないだろうか。それがこの授業での知見である。

写真5

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