ソニー元社長出井氏--「きれいな富士山型」を描いた経営者の光と影

 ソニー元会長兼グループCEOの出井伸之氏が亡くなった。音響事業本部オーディオ事業部長、ホームビデオ事業本部長などを務め、1995年に代表取締役社長に就任した際は、14人抜きの人事が大きな話題となった。PC「VAIO」、ロボット「AIBO」など、後のソニーを代表するような新たなカテゴリーを積極的に生み出し続けた一方、薄型テレビへの転換遅れや後継者選びに賛否が生じるなど、社長として、また会長として歩んだ道は平坦ではなかった。数多くの会見やインタビューを通して出井氏と親交のあった、麻倉怜士氏が感じた出井伸之氏とは。

6月2日に亡くなったソニー元会長兼グループCEOの出井伸之氏
6月2日に亡くなったソニー元会長兼グループCEOの出井伸之氏

14人抜きの社長就任会見時から期待された「10年先を見据える力」

 思い出すのはやはり社長就任会見です。前任の大賀典雄氏は出井氏を選んだ理由を聞かれると、「ソニーの社長は技術が分かる人でなければならない。これは技術屋という意味でなく、技術が分かる人という意味である。プロダクツが分かる人、技術に精通している人、というのが条件となる。特に技術を理解する能力は大切だ。加えてソニーは世界最大のレコード会社も持っている。従ってソフトも理解できる人間でなくてはいけない。こうした条件を消去法でやっていったら出井が残った」と話しました。

 加えて「10年先が分かる人でなければいけない。そういう中でソフトを持っていないとこれからのマルチメディアには勝てない。ソフトとハードをバランス良くビジネスしてこそ、ハードはやっていける。ハードの事業をできる人はソニーの中に何人もいるが、ソフトを見つつ、そのモラルを上げながらできる人は少ない。ソフトもできる人間として出井が上がった」と、ソフト(今で言うコンテンツ)の重要性も説いていました。

 「10年先がわかる人」との評を受けた出井氏ですが、製品やサービスに関する審美眼は社長に就いても遺憾なく発揮されています。あるソニーのエンジニアは「はじめは、出井さんはなにを言っているのと不思議に思ったが、そのうち、ああこの人は100年先を見て、ものを話しているのだと分かった。われわれには絶対にない発想と見方をする」と、私に話しました。

 1995年の社長就任当時は、社内からも「いったい何を言っているの?」と訝しげに見られる存在でした。なぜなら、それまでのソニーの常識とはあまりにかけ離れたことを言い出したからです。しかし、その不思議がられた行動が後にVAIO、テレビ「WEGA」、AIBO、そして「プレイステーション」と、数々のヒット商品を生み出したのです。しかも、単に売れただけでなく、新しいトレンドをつくり、ソニー自体の評価も大いに上げたのです。

 就任後、4年が経過した時点での私の、出井氏に対する中間評価は、「ソニーにここまでデジタル」を定着させた功績は非常に大きい」でした。かつてのソニーは「デジタルなんか」と軽視する風潮が強かった。一般的にはCDなどの成功を受け、デジタルに強い会社というイメージがありますが、1990年代のソニーは、きわめてアナログ指向の強い会社でした。

 それだけに出井氏が掲げたスローガン「デジタル・ドリーム・キッズ」は、全社のトレンドを意識的にデジタルに向けようとしたものでした。逆に言うならば、そこまでしないと、染み付いたアナログ体質を変えるのは難しかった。まさに「時代にソニーを沿わせた」のが、社長時代における出井氏の最大の功績でした。

 出井氏が社長だった1995年から2000年にかけては、まさに歴史の端境期。1990年代はマルチメディア、後半からデジタルAVとITの時代になり、時代がアナログからデジタルへ大きく変わる最中でした。そうした時代の変化をスローガンに据え、その実行を全社に迫り、しかも、会社をその方向に向けて、急旋回させた豪椀は、やはり並大抵のものではありません。

 中でもVAIOの成功は、出井氏の鮮やかなリーダーシップを見せつけた最高例でした。それまでのMSX、ワープロ、携帯用情報ツールのパームトップ、通信端末のマジックリンクと、ソニーのパーソナル向けの情報機器は死屍累々でしたが、出井氏は「ソニーにはどうしてもパソコンが必要」と喝破。常務時代にアメリカのIT産業と密接な関係を持ち、1995年7月にはパソコン進出のためのプロジェクトチーム「GI」(インテル会長のA・グローブ氏と出井社長の頭文字を合わせた)も結成しています。

 インテル、マイクロソフトというオープンな世界の中でどう差別化するのかがソニーのパソコンの大テーマであり、スタイリシュなデザイン、カメラ付きのB5サイズ、AV機能付き……という、他にはない切り口の新製品を連発したのもこの頃。これは、オリジナリティを徹底的に追求するというソニーらしさを全開にして勝ち得たものでした。

 出井氏は、ことあるごとにAVとITの融合を述べていましたが、私に言わせると、それに「ソニーらしさ」が加わることで何よりの強みが与えられていました。当時の「ソニー好調の公式」とは「ソニーらしさを加えること」でした。

デジタル大競争時代突入で求められた構想力と政治力

 1995年の社長就任から数年間は予想以上の順調さを見せた出井体制でしたが、時代は、世界規模のデジタル大競争時代に突入し、社長に求められるものが変わってきました。ものづくりが上手いことだけではなく、雄大なビジョンを提案する構想力、合従連衡を進めながらもリーダーシップを握る政治力、その分野でデファクトが取れるハード、ソフトに渡る総合的な技術力が必要とされました。

 出井氏がこのときに宣言したのは、世界にも稀なソニーの特質を生かし、コンテンツから端末までを一手にソニーが行う「一気通貫」でした。コンテンツ、その流通、そしてユーザーがコンテンツを得るための端末を、ひとつの会社、そのグループがすべて持つというのは、世界広しと言えどもソニーだけ、と言ったことでした。

 当初、多くの人はソニーが放送局を持ったり、ソフト会社を持ったり、インターネットサービスを手がけなければいけない意味がわかりませんでした。しかし、それらはすべてこの一気通貫へとつながるのです。出井氏は、はるか先を見て、その未来の仕組みのなかで、今のソニーに欠けているものは、何かを自問自答し、それを補うという作業をしていたのです。

 このとき欠けているピースだったのが、流通とサービスでした。出井氏はコンテンツと端末を結ぶ伝送こそ、これからソニーの攻めるべき分野と判断しました。しかし、それはソニー的なコンセプト、感性がそのまま通じない世界のため、一筋縄ではいきません。すでにBSデータ放送の参入に失敗するという痛恨事も経験していました。

 当時のソニーは、ものごとを自分で仕切れる世界ではきわめて強いが、他との協力が必要となるととたんに弱点が露わになっていました。例えば、MD(ミニディスク)などの、規格と企画の両者に関わり、勝手知った自分の庭の中で自由闊達に行動できる分野では、抜群の力を発揮します。しかし他人との関係が問われる状況になると、とたんに、その力が弱くなってしまうのです。

 この頃から少しずつ状況は変化していきます。私は出井氏は富士山型の社長だと思っています。社長、会長を歴任した10年間のうち、最初の5年はきれいな右肩上がりを描いて登り、最後の5年は左肩下がりとなった。2005年に会長職を退いたときは、2003年のソニーショックの影響も引きずり、かなり状況が悪化していました。

 2000年からのソニーは単なるメーカーを脱し、「ネットワークカンパニー」になろうとしていました。すべての事業部に「ネットワーク」という言葉を被せ、インターネットとホームネットワークを使ったビジネスをあらゆる部署で模索していたのです。「eSONY」という言葉もあったほどです。しかし結局は、ビジネスのネットワーク化がほとんど破算し、出井氏も退陣に追い込まれました。

 私は当時、ソニーがだめになってしまった理由の1つは、新規商品がでていないことにあると考えました。ソニーは創立以来、5年ごとに、画期的な新分野製品を登場させてきました。テープレコーダー、トランジスタラジオ、トランジスタテレビ、VTR、「ウォークマン」、CD、8ミリビデオ、MD、プレイステーション……は、いずれもワン・アンド・オンリーの技術により、時代を拓きました。

 ところが、1994年のPS以後、ソニーから画期的な新提案は出ていないのです。出るのは、他社とあまり変わらないものばかり。ブランド力は素晴らしいから、それなりに売れてはいましたが、根本的に新しい市場、新しいユーザーを作ったわけではありません。それは単純な話で、「ソニーらしい画期的なものが欲しい」というユーザーの期待に、ソニーが応えてくれなくなったからですね。ユーザーは口を開けて待っているのに、肝心のソニーからそれがでてこないのです。ではなぜ、出てこなくなったのでしょうか。

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