大企業のなかで新規事業の創出やイノベーションに挑む「社内起業家(イントレプレナー)」たち。彼らの多くに共通しているのは、社内だけでなく社外でもアクティブに活動し、横のつながりや幅広い人脈、あるいは課題を見つける観察眼やその解決につなげられる柔軟な発想力を持っていることだ。
この連載では、そんな大企業内で活躍するイントレプレナーにインタビューするとともに、その人が尊敬する他社のイントレプレナーを紹介してもらい、リレー形式で話を聞いていく。
今回は、化粧品で知られるポーラ・オルビスグループの社内ベンチャー制度から誕生したencycloの創業者である水田悠子氏と齋藤明子氏。水田氏は自身のがん治療の経験をもとに、その後も一生涯続く「リンパ浮腫」にまつわる課題解決のため、これまでにない高機能かつデザインに優れた医療用弾性ストッキング「MAEÉ(マエエ)」を開発した。リンパ浮腫とはどんな疾患で、それによってどんな問題が起きうるのか、そしてなぜ新たなストッキングが必要と感じたのか、水田氏と齋藤氏に話を聞いた。
——まずはお二人の自己紹介からお願いできますでしょうか。
水田氏:私は2005年に新卒でポーラに入社しました。最初は販売の現場でしたが、以降はグループ企業のオルビスへの出向も含め、10年間以上、化粧品の商品開発に携わってきました。その間、2012年の29歳のときに子宮頸がんに罹患していることがわかり、1年半ほど休職させてもらって、手術と抗がん剤治療を経て、再びポーラの商品開発に復帰しています。
齋藤氏:私がポーラに入社したのは2003年、中途入社です。それ以前は建築や自動車、ITなどいろいろな会社を渡り歩いてきて、ポーラは6社目です。人事担当として入社した後、グループ会社のマーケティング担当の取締役として出向したり、投資家向けの広報担当になったり。それからまたポーラの人事に戻って働き方改革やダイバーシティ関連を担当したりと、さまざまなことを経験してきました。2018年からはCSR活動の一環として、がん治療と就労の両立をテーマにしたミッションを任されています。
——起業に至るまでの経緯についてもう少し詳しく教えていただけますか。
水田氏:がん治療後の4~5年は、自分のがん経験の置きどころにモヤモヤしていたんですが、そんなときに同じく同世代でがんを経験している友人の鈴木美穂さんが立ち上げた認定NPO法人マギーズ東京と出会いました。がんに影響を受けた人が誰でも自由に訪れられる施設なのですが、私は本業の経験を活かして、オリジナルグッズの商品開発に協力しました。その出来事から、マイナスにしか思えなかった自分のがん経験が、個性というか、人の役に立ったり、自分の新たな一面になったりするのかもしれない、という感覚を得たんです。
その後、同じく鈴木美穂さんら有志が立ち上げた一般社団法人CancerXにも参加して、毎年開催しているCancerX サミットというイベントで勤務先の親会社であるポーラ・オルビスホールディングスの協賛を得ることができました。仕事は仕事、自分のがん経験はがん経験、みたいな感じでそれまで分けて考えていたのが、このとき、もしかしたらこれは分けることなく、ふたつを融合して取り組んでいくことができるのかもしれない、と思えるようになりました。
イベントでは齋藤さんにも運営側のスタッフとして参加してもらっていて、会話していくなかで、視点は違えど、2人とも「がん後の人生も自分らしく生きること」をかなえたい、という思いが同じであることがわかり、コンビを組んで社内ベンチャー制度に応募しました。書類選考やプレゼンがあり、何度もダメ出しされたり再考が求められたりもしましたが、半年ほどかけて事業化の承認をいただき、2020年5月7日に会社を設立しました。
齋藤氏:私は当時、ポーラでがん治療と就労の両立支援というミッションを手がけるなかで、就労世代では女性の方ががんの罹患率が高いとか、そもそも婦人科系の病気になりやすいなどの知識を改めて得て、徐々に女性の生き方みたいなところまで思いをはせることが多くなっていました。
今は人生100年時代と言われていますが、その100年を踏まえた健康管理や哲学、生き方をサポートするサービスが世の中にまだ全然足りていないと感じてもいました。だから、すべての人が長く生き生きと健康的に生きていけるようなサポートを生涯に渡ってやっていきたい、とちょうど思っていたところでした。
——encycloはどんな事業を展開されている会社なのでしょうか。
水田氏:encycloでは、「すべての人の、美しくありたい想いを解放する」をミッションに、「アンメット ビューティー ニーズ(まだ叶えられていない、美しくありたいという想い)」の発掘・実現を目指している会社です。こんな自分でありたい、自分らしく生きたい、という想いを生涯通じてサポートすることを目指しています。その手始めとして今展開しているのが、医療用の弾性ストッキングなどの商品開発と販売です。
私もその当事者なのですががん治療の後遺症の1つに「リンパ浮腫」というものがあります。そのリンパ浮腫に悩む方々が生活を心地よく、楽しく過ごしていけるような商品・サービスを提供するブランドとして「MAEÉ」を運営しています。
——商品の話の前に、リンパ浮腫がどういうものなのか、教えていただけますか。
水田氏:リンパ浮腫とは、おもにがん治療の影響で、腕や脚が慢性的にむくんでしまう後遺症です。 婦人科がんの場合は骨盤の中の、乳がんの場合は脇の下のリンパ節を取るのですが、そうした手術や放射線治療などの影響でリンパ液のめぐりが悪くなり、腕や脚がむくんでしまうのです。一度リンパ節を取ってしまうと元には戻せないので、症状が出てしまったら完治は難しく、生涯つきあっていかなければなりません。婦人科がん、乳がんの治療が影響するため、女性の患者さんが9割とも言われています。
むくむと言っても、靴がきつくなるとか、指輪が抜けにくくなる、といった日常会話で出てくるようなレベルではなくて、ひどい場合は脚が2倍の太さになってしまうようなケースもあります。ケアの中心は、腕や脚を強く締め付ける医療用のスリーブやストッキングを、入浴と就寝時以外は常に、そして一生、身に付けるというものです。
また、肌に傷をつけると感染症を引き起こしやすくなるので、虫刺されや日焼け、怪我にも気をつけなければいけません。正座したり、重いものを持ったりして脚や腕に負担がかからないように、とか、あれもだめ、これもだめ、といった制約を受けながら生活していくことになるんです。
——もし、がんを治療して寛解しても、闘病という意味ではそこからがまた長いんですね。
水田氏:がんの種類にもよりますが、私の場合は5年間再発しなければ完治と言われていました。5年間でも長いな……と思っていたんですけど、9年経過した今、それだけたっても「無罪放免」にはならない。むしろ後遺症の方が長く続くという事実には、本当に絶望的な気持ちになりました。治療中だけでなく、治療した後の人生も大変なんだ、という気づきがencycloを始めた理由の1つにもなっていますね。
——私も初耳でしたが、リンパ浮腫というそれほど重要なことを、なぜ多くの人が知らないのでしょうか。
水田氏:おそらく多くの方は聞いたことがないでしょうし、実際、私も当事者になるまで知りませんでした。がんのことは、たとえばTVの情報番組や、乳がんの啓発活動であるピンクリボン運動などのおかげで、いろいろな情報を入手することができます。
最近は、医療の進歩のおかげで、がんは治ることも期待できる病気になってきていますから、「がんが治った後の悩み」が少しずつ顕在化してきた印象です。でも、まだまだ「がんの後の生活」そのものの、世の中の関心は弱いように思います。そのひとつであるリンパ浮腫については、命には関わらず、生きていくことはできるということと、必ずしも全員が発症するわけではないというのも影響して、声をあげる人も少なく、あまり知られていないのかもしれません。
——改めて「MAEÉ」というブランドと商品について詳しく教えてください。
水田氏:リンパ浮腫は進行性で、治らない疾患だと言われています。ですので、悪化を恐れて、いろいろなことを諦めてしまう。例えば旅行するのは諦めようとか、ファッションに制約があるから、外出は控えようとか、どうしても考えが後ろ向きになりがちなんです。
私はリンパ浮腫のケアのために、ものすごく分厚い医療用ストッキングを毎日履かなくてはいけなくなりました。洋服や靴でおしゃれすることや、旅行が好きでしたが、今後はもうそれらの一切を諦めなくちゃ……と思って後ろ向きになってしまった経験があります。事業化に向けてリンパ浮腫の方の多くにお話を聞く中で、ほぼ全員がそのような気持ちを抱えていることに気づき、気持ちや行動が前へ進むきっかけになればという気持ちで、MAEÉというブランド名をつけました。
——その第1弾が、独自の医療用ストッキングというわけですね。
水田氏:リンパ浮腫に悩まされる人にとっての課題は他にもたくさんありますが、まずは毎日履かなくてはいけない医療用弾性ストッキングの問題を解決したいと考えました。既存の製品は、あくまでも医療用として機能を満たしているかどうかが重視されていて、実際に利用する人の視点にあまり立っておらず、生活の中で心地よく過ごすことができないように感じました。私自身、悩みの種だったので最初はその医療用ストッキングをつくるところからやってみようと。自分の当事者としての経験と、それまでの商品開発やマーケターとしてのキャリアをもとに、さらに他のリンパ浮腫当事者たちの声も活かすことで、価値ある製品づくりができるのではないかと考えました。
——既存の製品と比べて履き心地などはどう違うのでしょう。
水田氏:医療用ストッキングというのは、段階的に強い圧迫力がかかるストッキングを履くことで、悪くなってしまったリンパ液のめぐりを助けるためのものです。
一般の方も使うことのある着圧ソックスをすごく強力にしたもの、というイメージです。本当に分厚くて、硬くて、履くのに力がいるので爪がボロボロになってしまうほどです。使い始めの頃は、出勤前の朝に何十分かけても履けなくて、結局仕事に遅刻しそうになったことが何度も。それに、夏は暑くて大変です。
私達がつくったストッキングは、医療機器としての機能や、圧迫力を持ちながらも、薄手の生地を使い、普通のストッキングと遜色ない自然な見た目になっています。素材にも気を使って、暑かったり寒かったりする日本の気候の中でも、1年を通して心地よくはけるようなものにしています。
——encycloとしてこだわったところや苦労したところは?
水田氏:弾性ストッキングは医療機器なので、どのメーカーでもつくれるものではありません。それを分かってはいたのですが、いざ委託先を探そうしたら、日本でつくれるメーカーはほぼ皆無だったんです。なんとか、あるメーカーさんに受けてもらえることになったんですが、商品開発の算段を付けるところまでで、すでに大変でした。
また、私は化粧品の開発経験はあっても医療機器の開発は初めて。でも化粧品業界で培った「おしゃれをしたい」とか「素敵に見せたい」とか「楽しい気持ちで使いたい」といった価値観は、医療機器であっても製品づくりに欠かせないと思っていました。当事者は強く持っているものの、今までの医療機器にはあまりなかった視点。そういった当事者の声を集めて、今までになかった医療用弾性ストッキングをつくりたい。そこが一番のこだわりで、開発を進める上での難しさでもありました。
——そういった医療用ストッキングはこれまでに存在しなかったのでしょうか。
水田氏:医療用弾性ストッキングの市場シェアは、ドイツやスイスなどほぼ欧州のブランドが占めていますが、サイズ感がとても重要なんです。欧州でつくられたものは欧州の方の体型が元になっていて、身体のつくりが違う日本人にはフィットしないものも多かったんです。お腹と脚のバランスや、脚のカーブなど、日本人向けのものがあればいいのにと思っていました。気候も異なるので、湿度が低い欧州で使われている素材だと日本では快適に過ごせないものもあります。
——MAEÉの商品は一足あたり1万円ほどで販売されています。この値段は、医療用ストッキングでいうと安いのでしょうか、高いのでしょうか。
水田氏:医療用ストッキングは高機能で、かつ医療機器なので一般的なストッキングと比較すると高価です。私も1足3万円ほどのものを使っていました。しかも徐々に圧迫力が低下するので半年に1回は買い替えが推奨されています。金銭的な負担が大きいうえに、満足していないものに大金を払うというのもつらいんですよね。
対して私たちの製品は、国産品として高い品質を備えつつコストを抑えています。1足1万1400円(税別)で、同等の機能をもつ既存製品と比較して少しでも安価になるように努めています。加えて、2008年からはリンパ浮腫の治療用の弾性着衣が療養費の適用対象になったこともあって、自己負担が少なく済むようになりました。医療機器として認められている商品では、そういった補助を受けることもできます。
——医療機器としての許認可を得るのも大変ではないかと思うのですが、そのあたりの苦労は何かありましたか。
水田氏:最初は本当にそこがわからなくて、一から勉強しました。徐々に、医療機器製造販売業の許可をすでに取得しているメーカーであれば製造できること、万一不具合などがあったときもしっかりフォローいただけること。そうした製造委託先であれば、私たち販売をする側は特別な認可を得る必要がないこと、などがわかったので、チャレンジすることができました。ただそれでも、始めの頃は学んでも学んでも不安で、「本当に扱っていいの?」という思いがぬぐえず、しつこいくらいいろいろなところに相談しに行ったりしましたね(笑)
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