壁に掛ける、あるいは薄型のテレビ台に設置するという考えは忘れよう。当時のテレビは図体の大きいブラウン管モデルで、動かすのが一苦労だった(痛みを伴うことも多かった)。今の薄型テレビでもある程度当てはまることではあるが、当時、選ぶべきテレビのサイズは、リビングルームの広さに大きく左右された。大きすぎるテレビを選んでしまうと、大画面テレビがソファよりも多くのスペースを占領する可能性もあったからだ。幸い、1990年代半ばには、ほかの機器を統合したテレビも登場していた。皆さんの中にも、テレビとビデオデッキが統合された製品を持っていた方がいるのではないだろうか。
時は1995年5月22日。「メルローズ・プレイス」のシーズン最終回が放送されるが、用事があって家で視聴することができない。ドクター・キンバリー・ショーが前のシーズンでカツラをめくって、大きな傷跡を見せたので、完全に狂気じみたことをやろうとしているのは分かっている。視聴者の期待どおり、彼女はいろいろなことが起きたアパートの建物を爆破し、テレビ史に残る名場面の1つとなった。もちろん、それを見逃すことなどできない。だが、当時は、TiVoやデジタルビデオレコーダー(DVR)がまだ存在していなかったので、選択肢は1つしかなかった。ビデオデッキを使って、番組を録画する。ビデオデッキの時計が正しく設定されていて、テープの残量が十分にあり、録画予約を正しく設定できていれば、自宅にいなくても、キンバリーが爆破ボタンを押すシーンを後で観ることができた。ただし、視聴前にテープを巻き戻す必要がある。
筆者は初めてのノートPCを1999年に購入した。機種は覚えていないが、Dellのマシンで、電話で注文した。当時でもひどく重たく感じたものだが、それでも、大学院入学のために米国内の遠く離れた場所へ引っ越したとき、容易に持ち運ぶことができた。そのノートPCの前に所有していたデスクトップだと、そうはいかない。机の上のスペースをほぼ占領した巨大なブラウン管モニター、いつも足をぶつけていたタワーコンピューター、本体とケーブルで接続され、カタカタと音が鳴り、少し斜め上に角度が付けられたキーボード、そして、レーザーではなく回転ボールセンサーを内蔵する有線の2ボタンマウス、この一式で構成されていた。
ストレージには、CDドライブとフロッピーディスクドライブの両方があり、さらに多くの容量が必要な場合は、扱いにくいzipドライブを接続できた。学期末のレポートを印刷するときは、耳障りな音を鳴らすドットマトリクスプリンターを使っていたものだ。このプリンターの用紙は両端に穴が空いており、その点線で区切られた部分を切り取るのが快感だった。ちなみに、1999年に登場した「Compaq ProSignia Desktop 330」の価格は2699ドルからとなっていた(現在の貨幣価値で約4150ドル)。
CNET Japanの記事を毎朝メールでまとめ読み(無料)
OMO戦略や小売DXの実現へ
顧客満足度を高めるデータ活用5つの打ち手
ZDNET×マイクロソフトが贈る特別企画
今、必要な戦略的セキュリティとガバナンス
企業や自治体、教育機関で再び注目を集める
身近なメタバース活用を実現する
ものづくりの革新と社会課題の解決
ニコンが描く「人と機械が共創する社会」