繊維からクラウドまでを提供するウェアラブルIoT企業であるミツフジ―――祖父は京都で西陣織工場を営んでいた。2代目社長となった父親は、90年代米国で「銀メッキを施した機能繊維」を見出し、ヒット商品を出した。だが、ブーム終焉と共に繊維会社は低迷。ある日「このままでは会社は倒産し、社員全員が路頭に迷う」と父親から言われた。助けを求められた息子・三寺歩氏は、家業を引き継ぐことを決めた。既存事業の大半から撤退する一方で、この銀メッキ繊維を使った新しい事業に社運を賭けた。それが今や日本発の「医療用ウェアラブルセンサー」を手掛ける企業として注目される存在になった。同社の代表取締役社長である三寺氏はどうやって会社を変えたのか。「デジタル」「イノベーション」をキーワードにして、ビズリーチの竹内真CTOが、話題の企業・ミツフジの秘密を探った。
竹内氏:三寺社長に関する記事をいろいろ拝見しました。三寺さんは1977年生まれで、私とほぼ“同世代の経営者”として、共感する部分がたくさんありました。
例えば家業を継ぐお話。三寺さんが東京で働いていた2014年のある日、お父様から久しぶりに電話がかかってきた。それで、「このままでは会社が潰れる。助けてくれ」と言われた。実は私も同じ経験があるんです。私の場合は結局、家業を継がなかったのですが、三寺さんは倒産寸前の会社を継ぐことを決めた。何が最後の決断のきっかけとなったのでしょう。その話をぜひ聞きたいと思ったんです。
三寺氏:ミツフジという会社は、もともとは私の祖父が創業した西陣織の帯屋でした。戦後、商売替えをして、レースや繊維雑貨を製造していたんですが、1980年代以降、繊維業界は「産業空洞化」の波に飲み込まれ、家業は次第に厳しい状況に追いやられました。
2代目社長である父親が、90年代に米国の「銀メッキ繊維」の取り引きをはじめ一時期は好転したんです。この銀メッキ繊維を利用した「抗菌靴下」「電磁波シールドエプロン」などのヒット商品もでました。でも、ブームが去ったら、うちには何も残りませんでした。2014年当時、外資系のIT企業で働いていた私のもとに、久しぶりに父親から電話がかかって、「お金を貸してくれ」「このままでは全員路頭に迷う」と言われたんです。
竹内氏:驚きますよね。すでに自分の生活はある。13年間実家には帰ってなかったんですよね。倒産寸前の家業のために戻れるのか。葛藤がかなりあったと思いますが、最後はどこで決断したんですか。
三寺氏:家業を継ぐことが正しいのか、継がないことがいいのか……これって正解がある話じゃないと思うんです。そうした選択とは別で、私の中では以前から、どうして地元(京都)は元気がないままなのか、違和感というか忸怩たる思いがあったんです。東京は景気が良く、いい仕事があるのに、地元の人たちは「もう未来がない」と思っている。現状を変えようともせず、同じように働いているんです。
「もし、自分がやるなら、いままでとは違うことをしたい」「新しい可能性を見つけることで地元の人たちを少しでも勇気づけられるのでは」そう思っていました。決断のきっかけといえば、それなんです。
竹内氏:経営者にとって売上高を減らすって本当に怖いことだと思うんです。借金も抱えているなら尚更でしょう。それなのに、三寺さんは決断できた。当時の心持ちはどうだったのでしょう。
三寺氏:「リセットしないといけない」と思っていました。食べていくためだけではなく、自分なりの目的や理由、その仕事に価値があると思っているからです。それなのに、赤字の仕事を引き受けるのは、自分で自分の仕事の価値を陥れることになる。赤字でも引き受けていると、取引先はさらに値踏みし始めるんです。悪循環にはまるぐらいなら、「もう、無理してやらなくていい」と考えたんです。
その一方で、「銀メッキ繊維」の価格を10倍、20倍、30倍に引き上げました。銀メッキ繊維に集中したことで、新しいニーズがあることも分かりました。とても付加価値の高い素材です。
竹内氏:取引先は驚いたのでは。
三寺氏:はい。「高いと言われたら、売らなくてもいい」と言っていたので、業界内で「感じわるい」とも言われていました(笑)。それで、私は説明して廻ったんです。「僕、いま感じ悪いですよね。でも、銀の原価いくらか知ってますか。親父が売ってた価格だとずっと赤字のままなんです」って。相手も驚いて「え!お父さん、そんな安い価格で売ってたのか。そりゃ、しょうがないな」って分かってくれる人もでてきました。
竹内氏:退路を断って「銀メッキ繊維」に絞ったわけですが、もともと先代社長であるお父さんが単身米国に乗り込んで契約をとりつけたとか。先代の話に戻ってしまいますが、どうやってお父さんは見つけたんですか。
三寺氏: 業界が低迷する中、「新しいことをしないといけない」と親父はいろんなきっかけを探していました。1992年のことです。大手の繊維メーカーが「銀メッキ繊維」の契約に走っている、という話を聞きつけ英語もしゃべれないのに、米国の会社に乗り込んで行ったんです。大手メーカーの中で、無名の中小企業は弊社だけ。ほかに選択肢のある大手と違い、弊社はこの契約に賭けてました。親父が食べきれないほどのボリュームのステーキを食べきって、必死に交渉したそうです。先方も小さなファミリー企業だったこともあり、そんな親父を気にいってくれて契約してくれたんです。
竹内氏:当時、銀メッキ繊維は「抗菌材」として注目されていました。いま改めてこの素材が注目されているのはなぜなんでしょうか。
三寺氏:ウェアラブルセンサーの材料になるからです。銀メッキ繊維は、導電性が高く、金属と違って伸びる特性があります。この繊維を、例えば心拍などを測る電極部分に利用することで「伸びるセンサー」ができます。これまでは、センサー部分が伸びると心拍データがうまく採れなかったんです。だから身に付けるセンサーは体を締め付けるタイプばかりだったんですが、この「伸びるセンサー」を利用すれば、着心地がいいウェアができます。
竹内氏:歴史ある「西陣織」の技が生きて、独自でセンサーや、IoTサービスを開発するまでに可能性が広がったのですね。本当に面白い。
三寺氏:「IT=先進的で、斜陽産業をリスペクトするのは抵抗がある」と考える人たちが少なくありません。ですが、それは違います。机上のアイデアを具現するには、ものづくりの技術・ノウハウが活きます。弊社では、このセンサーも、データを送信するトランスミッターも、心拍、感情などを分析するアプリも、ほかの産業のノウハウを活かすことで、すべてを自社で作ることができました。
竹内氏:素材の提供のみならず、自社サービスまで手掛けたのはどうしてですか。
三寺氏:「失敗」を見ているからです。先ほども言いましたが、1990年代、うちの会社にはヒット製品があったんです。銀メッキ繊維を使った「抗菌靴下」が売れ、「電磁波シールドのOAエプロン」も売れました。ところが、ブームが終わり大手メーカーとの契約が切れたら、結局うちには何も残らなかったんです。取引先の都合に翻弄されることなく消費者とつながるには、やはり自社ブランドの製品が必要と思ったのです。
トランスミッターなどの測定機器、ソフトウェアも自社で開発できたのは“縁”ですね。私は最初、家電メーカーで勤めていました。そこで、偶然にもトランスミッターをつくる部署にいたんです。私は技術者ではありませんが、トランスミッターやセンサーを開発するエンジニアの先輩たちがいたのです。
竹内氏:とはいえ、無名の中小企業が自社ブランドの商品を開発し、市場に投入するのは大きな挑戦だったと思います。後編では、この挑戦から聞きたいと思います。
2001年、電気通信大学情報工学科を卒業後、富士ソフトABC株式会社(現・富士ソフト株式会社)に入社、エンタープライズサービス向けWebサービス開発などに従事。創業準備期の株式会社ビズリーチに参画し、CTOとしてサービス開発を手掛ける。2010年、株式会社ルクサ創業に伴い、同社CTOとして約1年半の間、立ち上げに従事。2012年 株式会社ビズリーチ 取締役 CPO兼CTOに就任。
1977年2月7日生まれ。京都出身。立命館大学経営学部卒業。パナソニック入社。外資系システム会社・シスコシステムズでIT事業に携わりSAPジャパンなどを経て、2014年9月三ツ冨士繊維工業株式会社、現在のミツフジ株式会社の代表取締役に就任。
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