合併や買収の根底にあった2つのテーマ--前スクエニ社長和田洋一氏が語った当時の内情

 5月31日、デジタルハリウッド大学大学院駿河台キャンパスにて「エンタテインメントの未来を考える会 黒川塾(三十五)」と題したトークセッションが行われた。コラムニストの黒川文雄氏が主宰、エンターテインメントの原点を見つめなおし、ポジティブに未来を考える会となっている。

 今回は、スクウェア・エニックス前社長である和田洋一氏を招いたトークセッション「ゲーム業界潮流観測 藍綬褒章受章ナイト」を実施。和田氏がスクエニに在籍していた当時のさまざまなエピソードについて語られた。

 和田氏は野村證券を経て2000年にスクウェアに入社。2001年に同社の代表取締役社長に就任し、2003年にはエニックスとの合併により発足したスクウェア・エニックスの代表取締役社長や、スクウェア・エニックス・ホールディングスの代表取締役社長を歴任。またクラウド・プラットフォーム事業を目指し、2014年には子会社のシンラ・テクノロジーを設立したものの2016年に解散。ほかに一般社団法人コンピュータエンターテインメント協会(CESA)での会長も歴任。日本のコンシューマゲーム業界の発展に尽くしたことが認められ、4月に藍綬褒章を受賞した。現在はスクエニグループから離れているという。

黒川文雄氏(左)と、和田洋一氏(右)
黒川文雄氏(左)と、和田洋一氏(右)

画期的な取り組みをしていたデジキューブを“切った”理由

 冒頭では、スクウェアがかつて設立したデジキューブにまつわる話題に触れられた。デジキューブは、ゲームソフトをコンビニエンスストアで販売することを目的として設立した流通の会社。黒川氏が取締役として在籍したこともあり、和田氏との出会いもそのときだったと振り返る。1990年代においては画期的な試みを行う会社として注目を集めたが、2003年に倒産した。

 和田氏はこのデジキューブについて、売れ残っていたゲームソフトの返品を100%受け付ける契約となっており、市場が冷え込むと危機的状況になりやすいという構造的な問題を抱えていたと明かす。デジキューブの業績に陰りが見えた当時、スクエニ本体もギリギリ状態で共倒れになる危険性もはらんでいたとし、連結対象から外したと振り返る。

 デジキューブではゲームソフトの流通だけではなく、自らテストプレイをしたり、ゲームの魅力を伝えるプロモーション番組を制作。今で言うところのニコニコ動画やYouTubeで見られるゲームプレイ動画の取り組みを2000年の段階で実施し、ゲームに対する価値を自ら高めるキュレーターの役割も担っていた。

 和田氏は「インターネットがもう少し普及した2005年や2006年のあたりに、このときのアイデアを持ってくれば大きく化けたのでは」と語る。現在においてコンビニでゲームソフトを購入できること自体珍しいことではないが、黒川氏は、こうしたインフラが残ったのは業界にとってプラスだったとも付け加えた。

エニックスとの合併、タイトーやアイドス買収の根底にあった“2つのテーマ”

 和田氏がスクウェアに入った当時、映画「ファイナルファンタジー」の不振で厳しい状況に置かれていたのはよく知られているところだが、当時は内部でも多くの部門の部長クラスが退職してしまっており、ガタガタの状態だったことを明かす。そういった状況に陥った背景として、当時は前述のデジキューブや映画事業、さらには「プレイオンライン」というエンタメポータルサイト事業など、新規事業に対して積極的な姿勢を示していた一方で、主力のゲーム事業では「ファイナルファンタジーIX」と「ファイナルファンタジーX」以外で売上の見込めるタイトルが無く、パイプラインが乏しかったと振り返る。

 新規事業はそれぞれ狙いが良かったものの、デジキューブは連結から切り離し、映画事業は次回作が決まっておらず、仮に製作すると4年から5年かかるという期間の長さがネックとなって継続を断念。プレイオンラインもお金を払ってコンテンツを招致するという状況でやっていたため、提携先に断ってまわり、キラーコンテンツになりえるMMORPG「ファイナルファンタジーXI」に経営資源を集中させたと語る。こうした社内改革を進めていき、エニックスと合併する直前では創業以来の最高益を記録するまで盛り返したという。

 また当時を振り返るなかで、不振の理由に「開発サイドの発言力が強い」という意見があったことに触れ、「開発の発言力が強いのはいいこと。ただ当時は坂口さん(坂口博信氏)が海外(ハワイのスタジオ)にいて、まとまらない状況があった」と、日本でリーダーシップを発揮するまとめ役の人材が不在であったこと、そしてそうなると次のリーダーとなる人材も出てこなくなることが問題との見解を示した。もっとも開発側にそれほど問題があったという認識ではなく、当時の不振はやはり経営のほうにあったことを付け加えた。

 スクウェアの業績が回復傾向にあったころ、和田氏は成長戦略として「ユーザー(お客さん)との接点をふやす」と「グローバル化」の2つをテーマとして考えていたと語る。

 当時のスクウェアは、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE。現在のソニー・インタラクティブエンタテインメント)のプレイステーションハードでのみタイトルを供給。もっとも当時のSCEはPSPのような携帯型ゲーム機を展開していなかったため、据え置き型ゲーム機市場だけのアプローチとなっていた。PCに向けたタイトルもなく、さらに当時の大手はアーケードゲームも製作していたが、それもない状態。コンシューマ向けでもジャンルがほとんどRPGだったため、多様性を持たせてユーザーとの接点を増やさないと、この先厳しいと考えた。グローバル化については、海外はジョイントベンチャーを設立したり、パブリッシャーは別会社として展開していたが、この先欧米市場が伸びることを当時から感じており、自分たちで進出して広げていきたいと思ったという。

 スクウェアとエニックスの合併は、「ドラゴンクエスト」と「ファイナルファンタジー」という国内屈指の人気ロールプレイングゲームを持つ会社同士ともあって、ゲーム業界はもとより、一般にも大きく取り上げられるニュースとなった。和田氏はほかにもパートナーシップを組む会社を検討していたが、最終的にエニックスとの合併を決めた理由として「新興市場のアジアに進出していた」「ネット系のゲームに注力するべく準備をしていた」「携帯電話(フィーチャーフォン)のコンテンツを展開していた」などを挙げ、ユーザーとの接点が多いことから決めたという。

 その後もRPG以外のジャンルでゲーム事業を展開するべく、企業の買収を進めていく。その際基準にしたのは、強弱を問わず自社IP(知的財産)を持っていること。この先ネットワークの世界となったとき、自社IPを保有していないと物事を動かすスピードが遅くなるほか、商品展開の自由度も狭まるためだという。

 イギリスのゲームソフト制作会社であるアイドスを傘下にしたのは、IPを保有しているとともに、アクションゲームにたけていたこと。またリーマンショックの影響から、取得するための金額が一時期から10分の1にまで下がったことを挙げた。またタイトーを傘下に収めたのは、手がけていなかったアーケードゲームを展開していたことに加え、米国を中心にカジュアルゲームが大きな市場となりつつあり、そのIPをタイトーが持っていたことも挙げていた。

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