ところで、現実に摘発されるか否か以前に疑問もわきます。権利者が処罰を求めていないのに国家が処罰できるという制度を導入しようという、理由は何でしょうか。著作権侵害は、単に当事者間の問題ではなく「国家の秩序」に関わる問題である、という意識がその根底にはありそうです。
では、そもそも著作権とは何のためにあるのでしょうか。様々な意見がありますが、「それはクリエイター達が自分の作品から収益を得られるようにして、次の創作の糧にするためだ」という説明があります。誰でも作品を自由にコピーしていい(つまり自由に海賊版を売ってよい)社会では、誰もお金を払って正規版を買おうとしなくなるから、クリエイター側は自作の収入では食べていけなくなる。だから、無断コピーを違法化することで、「コピーを売って対価を得る」というビジネスモデルを守ろうとする制度だ、という訳ですね。
確かに、新聞・出版物であれ、レコード・CDであれ、20世紀型の文化産業の多くはこの「コピーを売ってお金を貰う」というスタイルでした。映画館や放送番組のように、「見せてお金を貰う(あるいは広告とセットで見せて広告収入を稼ぐ)」モデルも、勝手にコピーが流通したら成立しませんから、そのバリエーションと言えるでしょう。こうした創作の営みを守るために著作権という制度があるのだという考え方で、よく「インセンティブ論」などと言われます。
インセンティブ論はしばしば、「だから創作者の収益に関係ないところでは権利を及ぼす必要はない」という形で、不必要な権利強化に歯止めをかける形でも機能します。そうであれば、当の創作者側が処罰を望んでいない時に、国家が独自の裁量で起訴・処罰できるという非親告罪化は、なかなか正当化されにくそうですね。
非親告罪化に限らず、この連載でも登場した盗作の境界線(第6・7回)とか、私的複製や引用の基準(第8・9回)とか、著作権の保護期間(第15回)とか、海賊版の是非論(第16回)とか、二次創作の限界(第19回)とか、まさに著作権をめぐるほとんど全ての論点は、こうした「著作権は何のためにあるのか」の視点とは切っても切り離せないのです。
そして「収益の確保」という視点で考える以上、著作権は変わり続ける情報化社会と無関係ではいられません。かつて、作品を複製するという行為は誰でも出来ることではなく、コピーは希少でした。その時代には、「無断でコピーを取ると違法」という著作権の仕組みは機能させやすかった。
しかし、今やコピーは誰でも廉価・高速・高品質でおこなえます。その流通もネットを通じていたって容易です。いわば誰でも身元をある程度隠して、出版社・書店にも、レコード会社にも、TV局にもなれる時代です。そして、その恩恵はあまりに大きい時代です。
誰でも情報発信者になれ、かつコンテンツのコピー流通を止めることも事実上難しい。だから著作権は容易に守れないし、守ったところで利益も小さい。「情報化社会の中で著作権は機能不全を起こしている」と言われるゆえんです。この連載の中でご紹介した多くの論争やトラブルも、つまりは社会の変化と著作権という制度の軋轢だと言えそうです。
別な言い方をすれば、今、コンテンツのビジネスモデルは大きく変わりつつあります。著作権が創作のビジネスモデルを守る制度だとすれば、ビジネスモデルが変われば著作権も変わらざるを得ないのは当然ですね。
では、我々は著作権をどう変えていくべきなのか。
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