Wikipediaが迎えた10周年--これまでの歩みと今後の展望 - (page 2)

文:Daniel Terdiman(CNET News) 翻訳校正:川村インターナショナル2011年01月19日 07時30分

 それに反論するのは難しい。黎明期のWikipediaは貧者の「Britannica」と見なされていた。しかし、Wikipediaの規模が、「何十万もの記事」を含む由緒あるBritannicaを上回ったのはずいぶん前のことだ。実際のところ、Wikipedia上のコンテンツはかつて、専門家でない人でも作成可能なため正確性が疑わしいと考えられていたが、科学雑誌「Nature」が2005年に実施した調査の中で、無料でオープンソースのWikipediaの正確性は有料で専門家が記事を執筆するBritannicaと同等であると結論づけたことで、正確性に関する問題は沈静化した。

 雑誌「Esquire」の記者であるA.J. Jacobs氏は2005年、読者にWikipediaを説明する試みの中で、想像力に富んだアプローチを思いつき、同サイトのボランティアの編集者が誤った情報を修正する仕組みを実証した。まずJacobs氏はWikipediaに関する誤った情報だらけの記事を執筆した。次にその記事をWikipediaに投稿して、コミュニティーの反応をうかがった。最終的に、Wikipediaユーザーに記事を修正してもらうことに成功した「Esquire」は、オリジナルの記事と修正後の記事の両方を掲載し、記事がどのように進化したかを示した。

Wikipediaの登場は必然だったのか

 1990年代後半におけるインターネットの急成長、多くの強力なオンラインコミュニティーの出現、そしてもちろんWard Cunningham氏が1995年にWikiを開発したことなどを考えると、仮にSanger氏とWales氏が最初にWikipediaを生み出していなかったら、誰か別の人が同じアイデアを思いついていただろうか、という当然の疑問が浮かんでくる。

 有名なインターネット関連投資家でCreative Commonsの理事長を務める伊藤穰一氏にとって、その疑問の答えは明白なものではない。伊藤氏は、現在の形のWikipediaは2001年に同サイトを取り巻いていた独特の状況からしか生まれなかったと思う、と述べる。

 「Wikipediaが始まったころの中核的なコミュニティーは、本当に特別なものだった。わたしはこのコミュニティーを『公益のために働く勉強家』と呼んでいた。コミュニティーというのは1人の人間ではなく、例えるなら『オーシャンズ11』や『ミッション:インポッシブル』といったものだと思う」(伊藤氏)

 伊藤氏は、偶然の幸運な発見がWikipediaの誕生に大きく関わっていたことは確かだとしているが、Wales氏とSanger氏、そして初期におけるほかの意思決定者たちがWikipediaの無料でオープンソースという特徴を維持する決定を下したことが、現在のWikipediaを形作る上で役に立った可能性は高いとの見方を示している。ほかの誰かがオンライン百科事典を作り出していたら、商業化を試みて、その百科事典の規模が限定的なものになっていたかもしれない。

 Lih氏もこの意見に同意している。

 「無料ライセンスがなければ、Wikipediaは現在のような姿にはなれなかったと思う。非常に多くのボランティアの関心と情熱を捉えることが極めて重要だった。そのようなプロジェクトがMicrosoft、あるいはAppleによって始められていたとしたら、そして営利目的の企業が所有するサイト上でこれほど長時間(記事の作成や編集の)作業をしなければならないとしたら、純粋な使命がある場合のように大勢のボランティアを集めることはできないだろう。それは非常にユニークなことであり、極めて短期間で大勢のボランティアを募るための手段だった」(Lih氏)

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